――戸塚さんは体罰で有罪になったにもかかわらず、いまだに一部からカリスマ的な支持を得ています。そもそもどんな子供でしたか?
俺はもともと偏差値秀才やったんや。ものすごく成績が良かった。学校の成績がいいと、自分は何やってもできる、俺は万能だ、トップだ、そういう気になってくるもんね。今の偏差値秀才もみんなそうやろ?
小学校のときから先生のお気に入りだったことが、勘違いに拍車をかけた。甘やかされたねえ。あれが一番まずかったなと思ってる。
何かうまくいかなくても他人のせいにしてしまう、反省ができん子供やった。
それがね、名古屋大学に入ってヨットを始めてわかった。自分は物覚えがいいだけで、何にもできんじゃんって。
ヨットを高校時代にやっていた人は少ないから、みんな同じラインからのスタートになる。そうすると自分よりダメだと思っていたやつの方が、早くうまくなるという現実をつきつけられる。
ヨットのおかげで、反省とか協調とか全然できんかったことが、どんどんできるようになっていった。
――戸塚ヨットスクールで問題児に会うと、昔の自分を見るような気持ちになるのですか?
そう。こいつは俺とおんなじ風にして、こうなったなというのがたくさんいた。
――戸塚さん自身は体罰を受けて育ったんですか?
俺は体罰を受けんかったんや。昔やからゼロやないけどな。
でもさっき言ったように先生のお気に入りだったんで、ずいぶんと甘やかされて育った。
――体罰を受けてなかったんですね! 「子供のときに体罰を受けたかった」という思いから、ヨットスクールで体罰を使い始めたんですか?
そういう部分があったということやね。だって俺はただの偏差値秀才で、社会で必要な実際のことができんかったからさ。人付き合いひとつとっても、自分が上からじゃないと付き合えんわけ。俺が偉いんだと思い込んどった。
たとえばヨット部で喧嘩が起きたときに、うまく互いの言い分を聞いて収めるやつがおるわけよ。俺は自分が上だと思ってるからそういうことはできなかった。人間的にどちらが優れてるか、まざまざと見せつけられた。
――ヨット部に入ろうと思ったきっかけは?
俺は理科系やったから、ヨットは不思議でしょうがなかった。
風だけで走って、元の場所に帰ってくるというのが信じられんじゃん。どんなに絵を描いたって、風に押されて走ったら絶対元のところには戻れんわな。それがちゃんと帰ってくるという摩訶不思議よ。
――ヨット部に体罰はありましたか?
ヨット部にもなかったねえ。
教育が子供を意固地にしちまう
――ヨット部にもなかったんですね。戸塚さんが体罰を使うようになったのが本当に不思議です。
体罰のええのはね、やられたやつにだけ効くんやないこと。他のやつにも効くんよ。
基本的に一番ダメなやつがやられるわけやから、他のやつは『次は俺だ』って気がするよね。
――戸塚さんは著書『本能の力』の中で「尻や腿などの筋肉の厚い部分を叩きます。生徒にダメージを与えることが目的ではなく、その場限りの衝撃、痛みを求めているわけです」と書いていますね。一方、ドキュメンタリー映画『平成ジレンマ』の中では子供の顔を蹴り上げる場面が映っています。どう加減しているんですか?
まずね、目的を考えなきゃいかん。体罰は『恥をかかせる』ということを目的にせないかん。
論語に『恥有りて且つ格る』という言葉がある。恥が人間を進歩させる、という意味。体罰をやられたやつが進歩するわけね。
それをまず目的にしようよと。体罰をやる方は、頭の中で『進歩だ、進歩だ』と言いながらやる。そうしたら、ちょうどええ体罰になるから。
ただね、体罰を受けないで育ち、わがままいっぱいの生意気なやつらはね、頭が凝り固まってるもんで体罰を少々やっても効かんのや。体罰が悪いと教え込まれとるやつは、自分が悪いとは思えないから余計に効かん。
お前が悪いから体罰をやるんやでということを、納得するまでせないかん。
――昔は体罰を少しやれば効いたのが、だんだん効かなくなってエスカレートしていった?
やる量が増え、だんだんきつくやらんといけなくなった。今は弱い人間が多いからね。じーっとしとりゃなんとかなる、嫌なことがすぎていくと思ってるんやね。そいつを動かさなきゃいかんわけや。
ヨットに乗れといっても、風が強いときは怖くて怖くてしょうがないんだ。ウインドサーフィンほど怖いスポーツはないよ。だからみんな絶対に嫌、絶対にやらないよと頑張るわけや。
そいつを乗せないかんのやから。放り投げても、ひっぱたいても、とにかく乗せるんや。そこがなかなか難しいんよ。乗ったらあとはしめたもので、あとはヨットが勝手にやってくれるからね。ヨットが自分と向き合わせてくれる。
本来、頑固というのはええことなんやで。信念を守り抜く強さという意味でね。でも連中は悪い方向に使う。それは頑固やない、意固地っていうんや。
今の教育はね、子供を意固地にしちまうん。とにかく意地を張っておれば、やらずにすむっていうのが今の教育よね。
赤ん坊は進歩しないと人間になれない
――合宿所で子供たちにどう接していたんですか。まさか四六時中、体罰を使うわけじゃないですよね?
大人がやらん方がええんだ。子供というのは本能的な行動をするやろ。本能が善なんだ。これが性善説。
だから子供同士をほったらかしにしておくと、勝手に善悪を決めながら遊ぶんや。それで善悪を覚えていく。
――子供を集めて集団生活することに意味があると。
そうそう。そこに一番大きな意味があった。子供どうしを遊ばせておくと、まず己がわかるわさ。あいつに比べてだめだとか、あいつよりはええぞとか。これを礼というんだ。礼というのは、自分に対する礼。自分の能力がわかること。
それが相手に対する礼になる。相手の能力がわかること。もし相手の方が上だと思ったら、恥が出るやろ。恥をかかせる場面を用意することが、集団生活の一番大事なことなんや。
動物行動学を読んでごらん。腹が減ったとか、トイレへ行きたいとか、そういう自分に関する本能は生まれたときからちゃんとインプットされとるわけや。
ところが他人に対する本能はね、自然には出てこないんや。そういう場面に出くわして、刺激を受けたときに初めて出てくるから。子供のときに人との接触が少ないとダメになっちまう。
たとえば、こういう実験がある。母ネズミが子を産んだときに乳首を切り落として、子ネズミがおっぱいを吸えん状態をつくってしまう。すると、母ネズミに欠陥が出てくるんや。自分の子供が他のネズミに食われとっても、知らん顔してしまう。
動物は自分の子供がいじめられそうになると、強い奴に平気で向かってくじゃん。どんな動物でもそうやね。ところがそれは初めから備わったものではなく、何かの刺激があるから身につくものなんや。
ネズミの場合、自分の乳首を吸われる刺激があったら、子供と認定するわけやね。
――訓練中に死者が複数出てしまいました。親としてはそういうスクールに子供を預けるのは怖いと思います。
子供の『今』ではなく、『将来』の方が大事かどうかや。将来は今より進歩しとる、それが大前提じゃない? だから子供を進歩させてやろうとせないかんのや。
どうしたら進歩するの? その方法を知らんやつが、子供の『今』に接してうまくいくわけないじゃん。赤ん坊は進歩しないと人間になれない。今の落ちこぼれを見てごらん。ほとんど赤ん坊だから。進歩してないんよ。
――戸塚さんは1975年に沖縄海洋博記念「太平洋-沖縄・単独横断レース」で優勝した一流のヨットマンです。ヨットの日本代表コーチをやっても成功したと思いますか?
どうだろうね、まったく別の話だから。レースはね、スポーツなんよ。スポーツと体育は違う。うちは体育をやっとんだ。
体育というのは、どんなことでもできるようにするのが体育なんや。一生役に立つもの。一方、スポーツというのは競技の世界のことだけ。野球なら野球、サッカーならサッカー。試合で勝つのが目的。
『しゅぎょう』には2つある。1つは修行、もう1つは修業。
体育は修行。スポーツは修業。
行うというのはね、変化という意味なの。体育というのは物の変化の仕方を身につける。
教育というのは修行の方だよ。そうするとすべてに使えるようになるわけや。ヨットをやると、集中力をつける練習ができるんだ。集中力はすべてに有効なんよ。だからヨットで集中力をつける。これが修行だ。
そうやって分けて行かんとダメなのに、学校では体育の時間にスポーツをやっとるじゃん。体育の先生がスポーツと体育の違いを知らんのや。文部省のせいや。リベラルのやつらが日本をダメにしてる。
参照元:https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65570
みなさんの声
親がちゃんと子供に向き合ってたら、こんなところに預けないですよね?
そもそも、子供の問題じゃなく、親の問題の気がします。
瀬戸内の戸塚ヨット事件と言われた風の子学園事件の現場となった島だ。
ただ、この記事を読んで思ったことは風の子学園の園長は事件後も未成年にエロいことをやってた只の変態だったのに対して戸塚さんはスパルタ方式ヨットで教育というなんか1本筋の通った人物って印象でカリスマなんだろうなーって思った。
同様に、社会に適応しない者は非社会的な対応を受けることも道理だと思います
ダウンタウン浜田さんがいた日生学園も似たようなトコでしょ。
体罰は良いとは思わないが、人によっては恐怖政治は絶対に必要だと思う。
少年院や鑑別所もどんな悪人に対しても更生を建前に緩い対応をしてるから再犯が減らないんじゃないのか?
こういう子たちには「褒めて伸ばす」とか、もはやその段階ではない。
さらにややこしいのが、保護者からの依頼で預かってる子もあったということ。一度、家庭内で教育に失敗してる”尻拭い”をしてる側面もある。
体罰は絶対禁止、殺人も言語道断。
ただ、こういった教育に失敗した子を放っておくとどうなるかは、様々な少年犯罪などがその証左となっていると思う。
そして体罰を肯定し、体罰を行った指導者は自分も体罰を受けるべきと思う。(体罰は人を成長させるのであれば)
年をとり理解力も下がる年齢になった時、俺は年寄りだから口で説明しろ は通用しないと思う。
と言っても、私が本当に社会のモラルに反するような悪いことをしでかして(でもそんなに悪いことだと理解していなかった)、今からこの悪い手を叩くからな、おじいちゃんの手も痛いんだぞ、と鬼の形相でバッチーンと叩かれ、これで大丈夫、と。きっと私の行動に落胆しながらも、私自身を否定しなかった祖父の行動に涙が出ました。
ここぞという時の理性的で愛のある体罰は意味があると思う。でもそれをできる真の教育者は殆どいない。
あと、積極的に叩くような体罰は手放しで賛成はできないが、子供に「お前が悪い」と分からせるべきという意見には大賛成。最近は悪いことをしても「共感しろ」とか「抱きしめて」とかばかりで、何が悪かったか伝わるのか怪しいやり方ばかり持て囃されているから。
死人だけは出さないように頑張ってほしい。
体罰しかない。わかる迄、できる迄、言うこと聞くまで、徹底的に理不尽に続ける。
そして、常にお願いします。ありがとうございます。を言わなければ、さらに体罰。
体罰こそが精神をただし、向上させることができる。
日本も強制収用指導所を作って、出来損ないや不良を徹底的に是正すべき。容赦しなくてよい。
教育論としてはブレてないけど、5人死なせちゃうのは方法論として過剰だし責任は重い。
私はスクール入りたくないです。
誉めて優しく教えてくれるほうが伸びると思います。
現代では自己肯定感が大切だと言われているのに、今だに恐怖心で支配しようとしている人がいることは、本当に残念。そして、こんな人に子供を預けようと思う親がいる事は、もっと残念に思う。
1つだけ引っかかるのが 先生自身は体罰を受けたことがほとんど無いという事。
体罰を受けた経験が有った方が、実際に体罰を行う側になった場合の「こうすると痛い」とか「こうすると苦しい」と理解していたり 最悪な事態に陥らない程度の力の加減も分かるのではないだろうか?
時代の流れに臆せず自身の教育論を展開し続けるこの先生らしいといえばこの先生らしいところでもあるが。
昨今問題になってる不登校や精神科の付けた病名や発達しょうがいも、この先生に解決を望みたいところである。
こんな奴に限って、権力にヘコヘコしたり、自身が体罰受けたら被害者ヅラしたりしそう。本人も自分は体罰受けたことないって言ってるし。
人前で恥をかかせるのがどれくらい危険か分からないのは恥ずかし過ぎる。
一方で、未だに「捨て子」の装置として機能しているとこがなんとも…。
親が相当悪いと思うけどね。
校長はろくでなしの餓鬼あいてによく結果出してると思う。
ただ、何か間違った道に進み出すと止まらない気がする…
それも半世紀も昔の入りやすかった時代だし。
緊急事態宣言で閉校したのかな?
偏差値って学校の成績ではなく、模試の成績で見るのではないの?
困ったものだ。
感謝してましたね。
なんで感謝してたのでしょう?
高校生になって友達ができたからだってさ。
みんながみんなじゃないだろうけど、感謝する奴もいるって事は事実なんです。
まあ、やり過ぎだったとは思いますけどね。
じゃあどうすればいいの?に答えを持っている人は殆どいない
その答えも「自主性」とか「信じる」とかとても解決できるものではない
世の中には想像を絶するほどアカン子供を持つ親もいる
小中高で放置されたまま放り出されて、ニート一直線、他人に迷惑かけて家の金も潰されて、もう存在していることが迷惑な人もいっぱいいる
これを事なかれ主義で学生時代に放置して矯正を放棄することは…
これこそ一つの罰だと思うよ、物理的な体罰がないだけでね。
人権や自主性なんてのは「出来のよい子」しかいない前提の世界の話だからな
底辺校の校則は厳しくて上位校は校則なしといっしょ。
そもそも躾がしっかり出来ていれば戸塚さんなんて不要なんだから。
一時的に暴力で大人しくさせて従順になるように支配することを「更生」だと思っているのなら、大間違い。
むしろ、暴力で支配することを正当化する人間が育ったら、それはただの犯罪者養成組織だ。
その意味では、戸塚ヨットスクールは典型的な教育失敗モデル。
自殺者や傷害致死等の犯罪者を生み出す一方で、本来の目的であるヨットの五輪代表選手を一人も生み出せていないのだから。
ヨット漬けの生活を送らせて、ヨットという競技人口が少ない世界で成功した人間がいないというのは、別の意味で驚異的だ。
体罰というのは、子供を納得させることができる論理的説明能力に欠け、子供に向き合う忍耐力のない人のやること。
緊急事態で体罰が必要な場合がゼロではないかもしれないが、体罰の常態化では失敗するという典型見本。
と考えたとき、校長の言っていることは概ね正しいです。
さて、こう書くと批判殺到青ポチがたくさんつくのでしょうが、
では昨今の学校などの教育者は褒められたものですか?
「ゆとり教育者」が増えました。
犯罪も増えましたね。
生徒への性的嫌がらせ、暴力、指導放棄、現代の教育者は一言でいうと「弱い」。
こういった現状解決できます?
一見、話しがズレてるように聞こえるかもですが、
この校長は一貫して自分の教育方針を確立している。
教育者としての覚悟をこの校長は持っているということです。
体罰の良し悪しに関しては賛否両論あると思いますが、世の中には
「どうしようもないやつ」
というのが一定数いますので、そういった者達に対しては「絶対に」必要な教育スキルになります。
未成年の凄惨な殺人事件の数々をあなた方知りません?
知ってますよね?
そいつらには言葉は通じませんよ。
戸塚先生みたいに名大出てるエリートは体罰するとかえって覇気をなくしてしまうから放置でいい。
どうしようもなく頭の悪く、このままでは社会で無価値なまま生きるような人間には徹底的に生かさず殺さずに叩いて教えるべき。放置したままだと劣等感の塊である彼らは強盗や殺人などの悪事で人に迷惑をかけることで優越感を得てしまうからだ
井の中の蛙大海を知らずだね
私は、体罰に反対だし、そもそも、体罰という言い訳をしているけれども実際には暴行罪、傷害罪という刑事犯罪だという認識しかない
だから、教育のための指導だといくら言い張っても、犯した罪の軽重には変わりはないと、考えています
戸塚某は、有罪判決を受け、服役しても、いまだに、確信犯的に、体罰(という名の暴行、傷害行為)を肯定している
更生できない典型的なタイプです
結構人間の本質なところを教育していると思う。
今の時代、体罰が駄目なだけで、それを除けば良い教育学校。
人間は知性があるから暴力以外の手段が使えるんだよ。
的が外れすぎてて話にならない。
戸塚の考えに賛同する人は勝手に行っていればいい。
その程度の秀才なら全国にいくらでもいる。
自説に固執して了見の狭い人という印象しかないな。
救いようがないムカつく老人が多すぎる。
子供よりも老人の方がよっぽどタチが悪い。
よく自画自賛できるな。
名古屋大卒の人にとって、戸塚某が同窓生にいること自体、恥ずかしいのではないか
私は、旧帝大理科(名古屋大ではない)を卒業していますが、それでも、自分のことを偏差値エリートと自称したことはありません
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