昭和40年代半ば~昭和50年代半ば、小学生・中学生の憧れの対象はスーパーカーにありました。
そして、その憧れであるスーパーカーの各部メカニズムを取り入れた自転車は「ジュニアスポーツ車」と呼ばれ、小・中学生の男子を夢中にさせることとなります。
ブームを巻き起こしたジュニアスポーツ車
実用性よりも豪華な見た目や装備を優先した「ジュニアスポーツ車」の特徴として、今では珍しいセミドロップハンドルや、ダブルヘッドライト、電子フラッシャー、シフトレバーの付いた変速ギアなどを装備していることが挙げられます。
スポーツ自転車の前身「フラッシャー自転車」
始まりは昭和40年代半ばに丸石自転車の開発した電子フラッシャー付きの自転車でした。
ダブルヘッドライトで、テールランプ、ブレーキランプや方向指示機能が付いている程度でしたが、これが人気を博したことをきっかけに各自転車メーカーが競うようにフラッシャー自転車開発に取り組み始めます。
速度メーターやシフト表示用のデジタル液晶パネル、電子ホーン、トランジスタラジオの搭載、ダブルヘッドライトのLED化やフラッシャーの大型化など勢いは止まりません。
電飾も豪華となり、そのため必要となる電力はダイナモだけでは到底足りなくなり単一乾電池を何本も必要としています。
フラッシャー自転車は実用性が低かった
最終的に少年の力で乗るには重すぎる重量となった実用性の低いこの自転車は、スポーツという名前とは程遠くなってしまい、のちに「フラッシャー自転車」と呼ばれるようになります。
昭和50年代に入ると「フラッシャー自転車」の流行はすっかり過ぎ去っていますが、スーパーカーブームが始まったことによりカウンタックやポルシェなどのヘッドライトを模倣した、通称「スーパーカーライト」を搭載した自転車が大流行することとなります。
スーパーカーライト搭載自転車の流行、そして終焉へ
リトラクタブルヘッドライトのように角張ったヘッドライトが人気で、使わない時は収納して必要な時にポップアップさせたり横方向に展開させるタイプもありました。
その操作は手動操作のほかに手元のスイッチによる電動式に対応したものまであります。
AT車やMT車のようなシフトノブ付きの変速ギアを搭載し、自動車と同じ油圧式ディスクブレーキの構造をした「パワーブレーキ」を搭載した自転車も登場しています。
「フラッシャー自転車」と比較してみると、「フラッシャー自転車」はテールランプなど後部の電子フラッシャーが最も特徴的だったことに対し、「スーパーカーライト」を搭載した自転車は、顔ともいえるヘッドライトに変化を与えることができたため大好評となり、ジュニアスポーツ車の流行はここがピークといえます。
これらの過剰な装備により上昇していく価格はPTAからの問題視や、第一次オイルショックにより自主規制する流れとなり、さらに昭和60年代には人気の原動力であったスーパーカーブームも収束してしまいます。
昭和60年代に入ると通勤や通学用のシンプルで実用的な自転車が若者向けとして売れるようになり、ジュニアスポーツ車は終焉を迎えた。
引用元 https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200504-00010000-bikeno-bus_all
みなさんの声
実際、日常では10段変速とか使う機会がないですが、変速数が多いほど誇らしい感じでしたね。
ギアチェンジがクルマのフロアAT風だったのが当時はかっこよかったです。
スピードメーターで最高速何キロとか競い合ってましたー(ง˙o˙)ว
今、考えると母も姉も優しかったんだなぁ。
あの頃で5万円くらいしたので今思えば凄く高価な自転車でした。
ただ、電池もマンガン電池でLEDでは無く電球だったので直ぐに電池が切れてしまいました(=_=)
流石に重かったので中学生になった頃にはフラッシャーユニットは全部外して高校卒業まで7年くらい使っていました
でもそれって、折り畳まないで走ると邪魔じゃないかな?
と思ったりしたんですけど、そういう問題ではないみたいですね
次は10段かな?横に折りたたみのかごがあってドロップハンドルだったなあ。
10段も変速いらないけど嬉しかった。
鍵をかけ忘れたら盗まれたよ…。
逆に今再販売したら個性的なデザインだから
一定層は購入する人結構いそうなw
自分は蛍電球とか付けてましたがw
ギアシフトが透明で、握って「カチカチッ」ってギアチェンジしてて羨ましかった。
そういえばあれ、志村けんがCMやってたんだよな。
後輪はディスクブレーキだった
45年前の話
羨ましかった。
ブームが過ぎた80年代初頭には民家の軒下に乗らなくなって錆びかかった個体をよく見かけたよ。
僕は要らないキラキラ装備の無い自転車を買ってもらいました
同級生のほとんどが同じ隠し目やら発行ダイオードのキラキラ装備の付いた自転車をカッテもらってタガ
懐かしいね!
シンクロメモリーっていうの志村けんがCMしてた
確かシンロクノモメリー?とか間違えるようなセリフいってたなあ
チャリンコ万歳︎
何キロ出るかやりましたわ笑
おおらかな時代でしたね。
黒王号とか名前着けている奴もいたね。
知ってる人いるかな(笑)
フラッシャー
ダブルライト
5段変則
みんなこんなのを乗っていたし自転車ショップには何台も飾られていましたね
自分のはブレーキの制動力が雨の日は5倍、なんてのが売りでした
友達や近所の子供達とブレーキに水をぶっかけてそれを実証してましたね
特に5倍とは感じなかったけど、まぁ子供のやることですからね
懐かしいですね
みんなで遊んだ帰り、チャリ漕ぎながら少年探偵団BD7のエンディングを歌ったよ。
何もかもみな懐かしい…。
うちもリトラクタブルはなかったけど5段変速が自慢でした。
スーパーカー等のかっこいい絵が描いてある泥除け等を装着したり、後でカスタマイズするのも漢(おとこ)の浪漫でしたよね(笑)
あと、うちの地域限定かもしれないけどスポークにプラスチックの輪っかをたくさんつけたり試験管ブラシみたいなのをホイールの中心に巻き付けたりもしませんでしたか?
…いや…あれは子ども用自転車時代だったかなぁ…
…さすがに記憶があやふや…(´-ω-`)とにかく、8時だよ全員集合を見て爆笑して、野球盤で消える魔球使って「ずり~よ~」と友達らと揉めて、ご自慢のかっこいい自転車に颯爽と乗り駄菓子屋さんでガリガリ君を買って。
楽しかったですね(´∀`)
あと、今は見かけない装備でスポークベルがありました。
走りながら手元のスイッチを引くとスポークに打棒が弾かれてタイヤの回転に合わせてベルを打ち付けて「ジャリジャリジャリジャリ」ってけたたましくベルが鳴ります。
うるさかったけど、カスタムする時は一番につけました。
あとはハブステ。
後ろに人を乗せる時にステップにしていました。
今はつけている人はいないなあ。
バイクに十数年乗った後にランドナータイプのトレックに乗っている。北海道から沖縄まで行ったし月に200km前後乗っているな。
小学校の時に乗ったスポーツタイプ。メーターもあり刺激的だったな
ダブルライトで6段変速
ここの画像にあるような有名ブランドじゃなかったかもだけど、お気に入りだった
四灯ライトで、スイッチでフォグランプとメインのライトに切り替わってた
電子音とともに左右に光が流れるブラックマスクの電子ウインカーが懐かしいです。
学習机は電動鉛筆削りやアラーム時計の付いたヒカリ・サンデスクでした。
しかも折りたたみ式
くそ~!
俺なんか、学校から帰ったら、ランドセルぶん投げて走って遊びに行ってたぞ!
どこに行くにしても走ってた!
今思うと考えられない体力w
不思議と、疲れを感じなかったんだよね!
現在、地方の車社会のせいか、子どもに自転車そろそろ換えるか?と聞いたら…「あまり乗らないからどっちでもいい」だそうです。少々むなしい。
近年、ヘルメット着用、低学年は大人と乗れ、行っていいのはここまで、不審者事案、一部の大人の暴走自転車による事故… 子どもの自転車環境は悪くなる一方です… 残念。
勿論、愛車の名前はランボルギーニミヤタでした。
極めつけはバイクの3ない運動!
因みにこれらのPTAの横槍による規制は私たちが大人になってから役にたったことは何一つない!全て児童・生徒を手っ取り早く管理するためのも愚策であり今の高齢者優遇、現役世代冷遇の図式は我々が児童・生徒時代からの流れではなかろうか?そんな気がします。
「エンガチョ」を大人が推進した時代はないでしょうけど(そりゃそうだ)、それが消滅した時代もないと思います。
30年位前で7万円はしました
理由がもうナメとんのか!って
派手な自転車に乗ってきたら貧しい家庭の子が劣等感を抱く
ホンマ頭おかしいやろー!
子供が3人おったら20万超えやぞ
原チャとちゃうねんぞ!?
そら今の時代になっても激辛カレー食わせた後に可愛がってたつもりだったとか、しゃあしゃあと言える教師がおるわけやわ
クソ神戸が!!
50年経った今でも健在で、自転車店のおやっさんには感謝・感謝ですネ。
友達と話していると子供心にも志向(嗜好)の違いが出ていました。
それぞれを丁寧に教えてくれた「おやっさん」
その行きつけの自転車屋さんはモーターバイクも扱っていたので、今の趣味にたどり着いています。
オモチャじゃなくてホンモノを、という事だったみたい。
(ロードマンがホンモノじゃない事が分かったのは最近ですが)
でもその価値がわかってきたのは中学生以降でしたね。
高校生になるとテントを積んで友人とキャンプツーリングに行ったり、いい思い出です。
知り合いが丸石自転車だったのでロードエースに
店にはアルピナという本格的なランドナーがあったが高かった
入門車なのでけっこう重いが、それでもお金ためてシマノのディレーラーにかえたりトウクリップつけたり、ハブやシートポストをクイックリリースにしてすぐはずせるようにして、友達と輪行で旅行に行きユースホステルに泊まったりといろいろと楽しい思い出を作ってくれた
サイズが少し小さめだったけど、小5の時には大きくてよく転倒しました。
高校2年からは、ママチャリが流行ったので姉のお古をもらったな。
サイクル野郎!って言うマンガが大好きでした。
友達みんな乗ってましたよ。
自分は貧しくてママチャリでした。
たまに乗せてもらって熱かった笑
フラッシャーはないけどトップチューブのところにレバーがついてるタイプだった
「クリックFF」という名称で、当時感覚でレバーを操作してたのをギヤの段数にクリックがあってそこに合わせると、そのギヤになるのが画期的だった
しかも、通常こぎながらじゃないとギヤチェンジできなかったものを、こがなくても自由にギヤを変えられるところが画期的だった
普通は後ろのハブがフリーなので足を止めるとチェーンも止まるが、これはフロント側がフリーなので足を止めてもチェーンが動いているため変速できた
フロントフリーなのでFF
驚愕の機構だった
私は、ナショナルが作った5段変速に乗っていました。確か、6万円近くしたものを、ねだりにねだって親に買ってもらいました。
“プリズムライト”だとかいう、メインライトの光をプリズムを利用して下のライトも光っているように見せる、今思えばフォグランプ的な位置のライトが売りだったと思います。
わけもなく、変速を1段にして、シャカシャカとやたら足の回転だけは速くて、でもスピードはそんなに出ていない感じで走るのが気に入っていました。
親に感謝です。
自分は貧しくて他人から譲り受けたママチャリ乗ってました。
子どもは意味不明なことやって喜んでましたよね笑
楽しいネタありがとうございます。
フラッシャーはダメ、変速は5段まで、セミドロップは上に向けて取り付けることなど。
当時の学校は全てダメダメダメ・・・の連発でそのうち廃れて世の中普通の自転車になてしまいました。
ジュニアスポーツではロードマンに全く追いつけずパフォーマンスの違いを見せつけられ社会人になってから、ロードレーサーに乗り3台乗り継ぎながらアップグレードしましたが年齢的に限界を感じて降りました。
今となっては良い思い出です。
あまり使わないとサビてかたくなって開かなくなるカゴですね。
両側に付けてる猛者もいました。
狭い道で車に乗っていると、前の自転車が急に止まったり、いきなり道の反対側へ渡ったりと危ない事も多々ある
問題は電源かな、ハブダイナモで発電させて小さめのバッテリーに充電して電源の安定化が出来るのなら可能かも?
体感的な重さは6Wでも0.9Wでも大差ありません。
3W程度でも光量を増やしたりテールランプやウィンカーも充分つけられるでしょう。
ちょっと見駅員さんが駅で使っている感じでした・・・
悩んで、いまだに買ってないけど。
ロードの後ろブレーキにブレーキランプ付けてるのいるけど、昼間車から全然見えないと思ったら、どうも後続のロード用だと気が付いた。
ハイブリッド車はエンドを広げて現行のホイールを使用することが可能です。その他部品も現行のものが使えます。
自動車だったら30年以上前のモデルは現行モデルと大きな差がありますが、この頃のMadeinJapanの自転車って良くできてます。さすがにレースでは無理ですがそれ以外なら今でも十分に通用します。昨今スポーツ自転車は海外ブランドが席巻してますが、日本メーカーが気合を入れて作ったら負けないと思う。
現在は、電動自転車だから、バッテリーだし。
しかもLEDで、ある程度の電飾にも対応出来そう!
何十年も前の自転車が何千kmもの走行に耐えうるのに感心したのを今でも憶えています。
我が家は買ってくれない
仕方なく黒いフレームをカラフルな色に缶スプレーで塗装、ドロップハンドルに変速機をハンドル取り付けタイプに交換して流行に乗ろうともがいた苦い経験を思いだす。
当時そういった高級車を買ってもらえない我々貧乏人は、プラモ屋で麦球を買い、ブレーキユニットに手仕込みして制動時にバックランプ光らせる程度が関の山でした。それでもかなり楽しみましたけど。
大学生になると仲間の間でロードレーサーに乗るのが流行り、自分も真似をしてついに購入。片道23キロの遠距離通学を開始し、峠越えなどの挑戦もした。自転車は趣味と実用の両方で役立つのがいい所。
確かに親が考えていたように、危険ではある。自分は通学中に自転車で転倒して、歯が4本折れ、ブリッジの前歯になってしまった。治療費48万円を支払わされた親も気の毒。
しかし転んでも起き上がり、乗り続けるのが自転車魂の持ち主。その後も自分は、スポーツ自転車を何台も乗りつぶし、人生の様々な局面で自転車と苦楽を共にしてきた。スポーツ自転車は自分の個性の一部だと思っている。
ブリジストン アストロG→ロードマンに乗った
アストロGは単一乾電池6本積載でかなり重かった
その後のバイク、車のメンテナンスができるようになったのは自転車いじりがきっかけだった
ただ単に変速が多ければ多いほどカッコいいと思っていた時代でもあったわ(*‘ω‘*)
当時学校迄の道路が繋がり自転車通学が学年の途中から始まったと言う具合。
当時の自転車屋は、かなり儲けたと思う。
私の地区迄持って来ての展示即売会だったから(S.40年代)。
校則でセミドロップは禁止だったので、ソレを上下逆さまにしてました。
田舎だったので田んぼのあぜ道や林道にも満たない山道を走ったものです。
おかげで3年間持たず、3年の後半にはドロップハンドルのランドナーもどきに買い替えました。
校則違反でしたが昔はおおらかでしたね。教師からはせめられませんでした。
同級生からの風当たりは強かったですけど…
小さい頃から偏屈者でしたね。
今では当時の山道好きが高じてオフロードバイクと4WDにのってます。
なまじスピードが出るだけに、どっちに曲がりたいのかの意思表示をハッキリしてくれないと危険
オイルディスクブレーキは、一見、利きが良さそうでも、実際はパッドが磨り減るとブレーキ本体を交換ということになりかねなかったですから大変でしたね。灯具類は見た目が良いですが、ウィンカーは電池式ですから水が入ると・・・、でしたが、こういったスポーツ車の技術が後年の電動アシスト自転車などに生かされているのは凄いですね。今後、安全の為に、色々な自転車にウィンカー付きのものが登場すると良いと思います。
なんたって、走行する際の遠心力で、タイヤ断面が自動的に三角形になることで路面に対する接地面積を減少させ、転がり抵抗を少なくさせるという、画期的なタイヤだからね!
あのAT車のようなシフトレバーにMT車のごとく用意された外装変速機はとても憧れていました。
しかし、変速をするために片手をハンドルから離す必要があり、安全性に問題がありました。そこへ、ハンドルから手を放さず指先だけで変速できるタイプが登場しました。
するとたちまち憧れだったこの自転車は姿を消していきましたね。
私が中学生の時は指先で変速するタイプ。高校生の時は右手のグリップを回して変速するタイプになりました。
私が大学生の時は、友人から「人間オートマだ」と言われました。「それをマニュアルと言うんだよ」と返したのを覚えています。
ちなみに、人間の身体はモーターとガソリンエンジンの中間くらいのトルク特性なので、6段変速だったら2速発進していました。ディーゼルエンジンみたいですねw
もし今の時代にこの当時の自転車が復刻版として発売されたなら即買いします!
いつかはカウンタックに乗りたい…
この夢は今でも見てますよ!
もちろん、すでにこのタイプは絶滅してたのだが、「いまみてもカッコいいなぁ」と、幼少の憧れを抱いていると、なんと数日後、営業先のとなりにある自転車屋で、1000円で投げ売りしていたw
もちろん即買いしてしまい、まったく乗らないけど、いまも大切に保管している。
今街中でドロップハンドルの学生はほとんど見ませんが当時は皆ドロップが主流でした。
今の通学用は無機質な皆同じ感じで面白みもなくちょっとかわいそうな感じですね。
最近は歳のせいか電動自転車にあこがれを持ってますが高いのと重たいので考えています、又ドロップハンドルに乗りたい。
当時はもうスーパーカー人気はなかったけど、記事写真の1枚目のものが自転車屋さんの店頭にズラリと並んでいて当たり前のように買ってたと思う。
フラッシャーとは呼んでなかったと思うけど…
中学生では、3段変速付きのママチャリのハンドルがY字にしたようなものに乗ってた気もする。
高校生では普通に2段変速のママチャリだったかな。
大学生になって原チャリ、社会人になって自動車、子供が中学生になって車は手放してカーシェアリングサービスに移行。
妻は子供が小さい頃は子供乗せ自転車、子供はLOUISGARNEAU…
小学生当時のフラッシャーなるものが一番高かった…
私も欲しかったのでしが買ってもらえず悔しい思いでした。
高校の頃にはロードレース用を買ってもらえました。
その自転車のフレームはいまだに有ります。
「ロードマン」が欲しかった高校時代。しかし貧困のため下位車種の「ロードスター」を買って貰って通学しました。
12段変速でしたが、特に故障もなく…夏休みに熊本から広島まで行った事が今でも最高の想い出になっています。
でも、中学生になって近所のお兄ちゃんが乗ってたドロップハンドルの自転車を貰えた
なんにもついてないシンプルな奴で、むしろ中学生になった頃に小学生の時の派手な自転車に乗ってるやつよりもカッコよく感じて嬉しかった
で、通学の足として使ってたのが金色っぽいメタリック色のロードマン。
途中には地獄坂と呼ばれていた厳しい坂もあったけど、ガシガシ登っていったもんだ。
今じゃ、金かけたロードバイクでも一息にいけるかなぁ、、、
郷愁にふける良い記事だ。
電飾は「調べないとわかりません」っていうことが多いから商売的に厄介者だったなぁ。自転車ってシンプルだからちょっと触ればどれだけの作業時間・費用で修理できるのかわかるんだけど、電気はそうはいかないんで。
但し、校則でドロップハンドルは違反だったので上向きにひっくり返し、変速も「5段まで」というルールがあったので、6段変速の自転車は6段目に入らない様にテープ巻きしてじやないと通学許可が貰えなかったな。
リトラクタブルライトのは、珍しさでみんなで出したり入れたりして遊び過ぎたのか、かなり早い時期に動かなくなったりしていた。
なんやかんや、時代を先取りしてる。
それまでのミニサイクルに比べて行動範囲が広まってよくサイクリングに友達と行った事はいい思い出になっている。
その後のバイクや車への趣味に繋がる道だったと思います。
大人になってからヴィンテージ自転車のレストアが趣味にしてるんですが、5年ほど前に「ロードマンってどんな感じだっけ?」と思って83年の車体をヤフオクで入手してレストアして通勤に使ってました。
自転車の構造に詳しくなってから見ると、作り方はママチャリですね。スポーツ車の形をしたママチャリ。乗り味もママチャリそのものでした。そこを分かったうえで趣味として乗るのはいいと思います。ヤフオクを小まめにみてれば純正のオプション品が今でも新品で出てきますし、タイヤとか今のママチャリと同じ規格なので苦労することもないです。
小学生のときに流行ったフラッシャー自転車は、高学年になると恥ずかしくて外したけど、外した後にはすごく間抜けな空間が広がった…
自動変速やスピードメーター、バックミラーを付けているヤツもいたな…
終わりくらいには、ラジオを付けた自転車もあった…f(^_^;)
セミドロップハンドル、6段変速、ウインカー、黄色フォグランプ、電子ブザー、リアサーボオイルディスクブレーキとほぼフル装備。オプションで横にかご、ミラー、スピードメーターなんかをつけたりして・・・・。雪国に引越しとき、アイスバーンでは車重の重さに加え、リアのブレーキが効き過ぎるので下り坂ではブレーキ操作に気を使ったことを覚えています。
高校の時は下火になり、お金ある家庭は普通の自転車に乗りかえてたやついたけどね。普通の家庭はなかなか買ってもらえなかったので、けっこうまだ乗ってた人多かったですね。中学の時男子は全員のっでしたねー。けどけっこう高かったよねー。親もがんばってくれたなと思います。今は親の気持ちがわかると年齢になりました。
リアのターンシグナルは今のプレミアムカーが搭載している流れるウィンカーで(もちろん、電球ですが)カッコ良かったなぁ~
その後、中学生になってウィンカーを外しハンドルをドロップにしたりしてサイクリングにも出かけたな。その頃にはロードマンが発売されて、欲しかったな。
さらに電池式のフォグライトまで付いてました。
変速ギアは自動車と同じ様なHパターンのものでしたが、電動式だったので電池が減ってくると変速が遅くなる代物でした。
で、中学生なる頃にロードマンに乗換え〜と、この記事通りの道でしたね。
結局、大人になって「車」は、何台も買ったのに「自転車」は買う気になれなかった。(TT)
皮肉な話だが、そうしたフラッシャー自転車が消滅した1990年代になってようやく、ハンドルから手を離さず確実に操作できる多段シフトが量産化された。複数ヘッドライトの並列装備も、LEDライトやハブダイナモの実用化、乾電池や二次電池の高性能化で簡単にできるようになった。
クロスバイクやMTB等のハンドルにアクセサリーバーを追加するなどすれば、ヘッドライトがずらりと並ぶ「なんちゃってフラッシャー」に変身できるぞ!(笑)
電池の消耗が激しくて、とても小遣いでは買えなかった。たしか単1、8本使ってたと思う。
リトラクタブルライトで車のオートマ風デザインの5段ギアでした。色は当時のポルシェ935のマルティニカラーを意識したものでした。
ただ、ランチアタイプはギアがFFだったかな?ペダルこがなくても変則できるシステムだったような?
頭の片隅程度の話ですみません。
当時の校則のせいでドロップハンドルを付けられなかったが、後に戻して高校時代も通学で乗ったよ。
今思うと危ないんだけど楽しかったな
クルマに憧れていたから嬉しかった。
あと、自分で豆電球みたいな電飾をダイナモから電源を取って前後につけてたな〜
やはり、中学生になってロードマンを買ってもらい、鶴見川のサイクリングロードや街中をかっ飛ばしてました。自転車暴走族だった。
今思えば、おっかない…
管理人の率直な感想
僕はこの自転車の世代ではないのですが、思い出はあります。
小学校2年生のとき。
近所にこの自転車に乗ってるおじさんがいましてね。
当時僕は、ハンドルの中央に仮面ライダーの顔が付いていて、その顔がピカピカ光るという実に怖い自転車に乗っていました。
ピカピカ光る仮面ライダー自転車に違和感を覚えていた僕の前に、流星のごとくスポーツ自転車おじさんが現れたのです。
「いろいろ凄い自転車」に乗っている普通のおじさん。
見た目は普通だけど凄い自転車に乗るおじさん。
僕の中で特別な存在でした。
具体的な家の場所は分からないのですが、定期的かつ不規則に僕の前に現れる。
それがまた神秘的だった。
おじさんの正体を暴きたくて後をついていくようになりました。
おじさんはそんな僕に話しかけることはなかった。
僕の小学校では低学年が自転車で乗れる範囲が決まっていて、その決まりを順守していた僕は、範囲外に出ていくおじさんを追いかけることは出来ませんでした。
「凄い自転車の秘密を知りたい」「おじさんの正体を知りたい」
そんな僕の願いは、猫の額ほどの範囲内では叶わないものでした。
数か月間、追いかけました。
ある日、いつものように範囲ギリギリの場所で止まって見送る僕に、おじさんが戻ってきて話しかけてきました。
「知らない人について行っちゃいけないって言われなかったか?」
黙り込む僕。
去っていくおじさん。
ところがまた戻ってきて、僕にパピコの片方をくれたのです。
二人でパピコを食べながら「なんでついてくるんだ?」とか「この自転車は若者がみんな乗っていたんだ」とか、何だかんだと話してくれたのですが、たどたどしい僕の返しのせいで会話として成立していなかったのを覚えています。
「とにかくもうついてくるんじゃないぞ」
これがおじさんの最後の言葉です。
小学生の興味は移り変わりが早いものです。
数カ月もおじさんに興味を持ったのが奇跡といっていい。
中学年になり高学年になり、中学に入り・・・おじんさんの姿を見かけることはなくなっていました。
結局おじさんが誰だったのか正体は分からず終いですが、まあ普通のおじさんだったんでしょう。
最後に話しかけてくれた夕暮れ時。
あのパピコの味は今も鮮明に思い出せる。
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