生きものたちは、晩年をどう生き、どのようにこの世を去るのだろう。
老体に鞭打って花の蜜を集めるミツバチ、成虫としては1時間しか生きられないカゲロウなど生きものたちの奮闘と哀切を描いた『生き物の死にざま』から…。
死を待つセミは何を見る
セミの死体が、道路に落ちている。
セミは必ず上を向いて死ぬ。昆虫は硬直すると脚が縮まり関節が曲がる。そのため、地面に体を支えていることができなくなり、ひっくり返ってしまうのだ。
死んだかと思ってつついてみると、いきなり翅(はね)をばたつかせてみたりする。最後の力を振り絞ってか「ジジジ……」と体を震わせて短く鳴くものもいる。
別に死んだふりをしているわけではない。彼らは、もはや起き上がる力さえ残っていない。
死期が近いのである。
仰向けになりながら、死を待つセミ。彼らはいったい、何を思うのだろうか。
彼らの目に映るものは何だろう。
澄み切った空だろうか。夏の終わりの入道雲だろうか。それとも、木々から漏れる太陽の光だろうか。
ただ、仰向けとは言っても、セミの目は体の背中側についているから、空を見ているわけではない。昆虫の目は小さな目が集まってできた複眼で広い範囲を見渡すことができるが、仰向けになれば彼らの視野の多くは地面のほうを向くことになる。
もっとも、彼らにとっては、その地面こそが幼少期を過ごした懐かしい場所でもある。
「セミの命は短い」とよくいわれる
セミは身近な昆虫であるが、その生態は明らかにされていない。セミは、成虫になってからは1週間程度の命といわれているが、最近の研究では数週間から1カ月程度生きるのではないかともいう。
とはいえ、ひと夏だけの短い命である。
しかし、短い命といわれるのは成虫になった後の話である。セミは成虫になるまでの期間は土の中で何年も過ごす。
昆虫は一般的に短命である。昆虫の仲間の多くは寿命が短く、1年間に何度も発生して短い世代を繰り返す。寿命が長いものでも、卵から孵化(ふか)して幼虫になってから、成虫となり寿命を終えるまで1年に満たないものが、ほとんどである。
その昆虫の中では、セミは何年も生きる。実に長生きな生き物なのである。
幼虫の期間が長い理由
一般に、セミの幼虫は土の中で7年過ごすといわれている。そうだとすれば、幼稚園児がセミを捕まえたとしたら、セミのほうが子どもよりも年上ということになる。
ただし、セミが何年間土の中で過ごすのかは、実際のところはよくわかっていない。何しろ土の中の実際の様子を観察することは容易ではないし、仮に7年間を過ごすとすれば、生まれた子どもが小学生になるくらいの年数観察し続けなければならない。そのため、簡単に研究はできないのだ。土の中での生態については、いまだ謎が多いのである。
それにしても、多くの昆虫が短命であるのに、どうしてセミは何年間も成虫になることなく、土の中で過ごすのだろう。
セミの幼虫の期間が長いのには、理由がある。
植物の中には、根で吸い上げた水を植物体全体に運ぶ導管(どうかん)と、葉で作られた栄養分を植物体全体に運ぶ篩管(しかん)とがある。
セミの幼虫は、このうちの導管から汁を吸っている。導管の中は根で吸った水に含まれるわずかな栄養分しかないので、成長するのに時間がかかるのである。
一方、活動量が大きく、子孫を残さなければならない成虫は、効率よく栄養を補給するために篩管液を吸っている。ただ、篩管液も多くは水分なので、栄養分を十分に摂取するには大量に吸わなければならない。そして、余分な水分をおしっことして体外に排出するのである。
セミ捕り網を近づけると、セミは慌てて飛び立とうと翅の筋肉を動かし、体内のおしっこが押し出される。これが、セミ捕りのときによく顔にかけられたセミのおしっこの正体である。
夏を謳歌するかのように見えるセミだが、地上で見られる成虫の姿は、長い幼虫期を過ごすセミにとっては、次の世代を残すためだけの存在でもある。
繁殖行動を終えた成虫に待つのは…
オスのセミは大きな声で鳴いて、メスを呼び寄せる。そして、オスとメスとはパートナーとなり、交尾を終えたメスは産卵するのである。
これが、セミの成虫に与えられた役目のすべてである。
繁殖行動を終えたセミに、もはや生きる目的はない。セミの体は繁殖行動を終えると、死を迎えるようにプログラムされているのである。
木につかまる力を失ったセミは地面に落ちる。飛ぶ力を失ったセミにできることは、ただ地面にひっくり返っていることだけだ。わずかに残っていた力もやがて失われ、つついても動かなくなる。
そして、その生命は静かに終わりを告げる。死ぬ間際に、セミの複眼はいったい、どんな風景を見るのだろうか。
あれほどうるさかったセミの大合唱も次第に小さくなり、いつしかセミの声もほとんど聞こえなくなってしまった。
気がつけば、周りにはセミたちのむくろが仰向けになっている。夏ももう終わりだ。
季節は秋に向かおうとしている。
参照元:https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190825-00295274-toyo-soci&p=1
ネットの声
アスファルトは熱い。そんなところで最期を迎えて欲しくない。
人間とは感覚は違えど、心のようなものはあるのかも知れません。本能といえば本能。
心と本能が不可分一体なのは人間も同じです。
何を感じて地面を見ているのか。
切なくなりました。
ただ、繁殖が出来た蝉は満足感なのかも知れませんね。
号泣している
今日はやけ酒だー
夏の夜は蚊帳をつって寝てましたので(障子を開けて)、カブトムシやカミキリムシが部屋に入ってくることも何度かありました。多かったのはカナブンですけどね。昆虫も観察すると面白いものです。
懐かしい思い出です。
嫌なのは鳴き声なんかではない。
夕刻、さぁ羽化だ!羽化の時が来た!と気合い入りながら道端をノシノシさ迷う幼虫を木にとまらせる毎日、夏の終わりには道でひっくり返って最後を迎えたセミに、頑張ったなと声を掛けて土の上に帰す。
弱っていて羽化できずに命を終える子も多いし、切ないし辛いんよ夏は。
これは元気な状態でも難しいはず。他の甲虫のように翅を使っても厳しい。見つけたら、近くの木にとまらせるようにしています。
地面はあっという間にアリに囲まれてしまい、まだ生きているセミをアリ襲撃の生き地獄にさせたくないからです。
完全に亡くなってしまってアリンコが囲んでいるなら食物連鎖としてこればかりは仕方ないと考えられるのですが…。
アリも生きている限り、食べるのは必須とも承知の上で。
セミにも幼虫から成虫になって過ごしたきた、自身の記憶というか感覚はあるとやっぱり思うので、台風や雨の気象もある中でよくここまで生き延びてこられたねと、頑張ったねと、お疲れ様だったねという気持ちになります。
まぁ、自分が勝手に思ってやってるだけですが、セミの気持ちは全く分かりませんけれどね。
私はクマゼミはいないことになっている東日本在住だが、家の近くに毎年クマゼミが鳴く一角がある。同じ一角で鳴くことから推測すれば蝉の行動範囲は非常に狭く、代々同じ樹の周辺で繁殖しているとも言える。蝉をつかまえると一晩で死んでしまう理由も分からない。
昆虫の好きな子供達が減ってきていると聞く。ジャポニカ学習帳からも昆虫が消えた。こういうことは誰が研究してくれるのだろう。
ならば、通常でも青空なんて識別できていない、と推測します
蝉の命は短いと言うけれど、地下にいるときが本来の姿で幸せな時間、人様が蝉と呼ぶ時間は辛く苦しい時間で、その姿はいっときの仮の姿なんじゃないかな
ミノムシなんて、オスは口が無い、なぜなら生殖してすぐ死ぬから必要ないそうです
メスに至っては蛾にならない、蓑の中でミノムシのまま卵を産んで蓑の中で死にます
ミノムシはミノガの幼虫だと言うけれど、ミノムシが本来の姿で、オスだけが蛾という仮の姿になる、と解釈した方が合理的だ、と思います
ならば、蝉も地下にいるときが本来の姿、ということになるよ
要救護者と呼んでいて旦那もラインで、今日は要救護者が7人いたーといってくる
ほんと、コンクリの上では死なせたくないなと思う
中にはひっくり返ったまま盛大に鳴いてる子がいて吹いたこともある
むしろふてぶてしすぎて清清しいような障害なのかと不安な・・
6年ほど前にミンミンミーとしか泣けないセミがいた
どんだけ音痴だよ!と笑いものにしてたが聞こえなくなると、ちゃんと子を残せたかなと気になってたが、今年ミンミンミー!ミンミンミーと音痴な声を久しぶりにきいて違うかもだけどちょっと嬉しかったw
苦しまないなら幸いだと思う。
次に蝉になって生まれてきたときによく確認したい。
最後まで抜けきる前に力尽きたのか、途中で止まる個体もいるし、脱皮直後の柔らかい体を狙ってか、蟻に集られることもある。
寿命は長い方が交配機会も増えるのに何故だろうね。現代まで種を存続させたことを考えると、何か有利な点があるのだろうけれど。
ミンミンゼミやツクツクボウシもけっこう鳴いているのに。
羽の色の違いだけなのかな?
なかなか見かけないのは死に場所を選んでたりするのかな?
心があるのならば、澄んだ空ではなく、幼少期に過ごした地面を見て物思いにふけるのか。
幼少期に何年も過ごした真っ暗な世界よりも、太陽の下で色彩に溢れた世界を見届けて終わろうとするのか。そもそもセミって色の判断できるの?
ここにコメントしてる連中には、いいやつが多い気がする、なんとなく。
いろいろ考えさせられる。
寝床で寝ていたらキャハハと笑いながら籠に閉じ込められ、拉致されるようなことを自分に置き換えて考えられるよう親御さんたちは真剣に教育してほしい。
虫が沢山捕れてよかったねーで終わりにしないでほしい。
地面から這い上がったセミの幼虫に出会います。
ランナーに踏まれないよう木まで運んでいます。
羽化しやすそうな所にワープです。(*^^*)
今年も命の限り鳴いて夏に欠かせないBGMになりました。また来年もセミパトロールできますように。
だから、転がっているセミを見つけた時は、「お疲れ様でした、ゆっくり休んでね」と呟いています。
うちのマンションは6年前に出来たマンションだし、7年前くらいだとちょうど土を掘り起こしたり工事してただろうに幼虫はどうやって生き延びたんだろう。。毎年めっちゃセミいるし、ころがってるけど。。
今は見て楽しむって感じかな。
自然の中で精いっぱい生きてほしい!!
短い期間一生懸命頑張ってるんだから、木陰で最期を迎えさせてあげたい。
きっと何世代もうちの桜に寄り、子孫を続けてきてるのか、、
今年も真夜中に部屋のベランダのカーテンを開けて、明かりや音を聞くと、鳴き出したり、、、網に張り付いて鳴き出したり、、、
今や玄関前やベランダで彼らの骸を見かけて、朝昼晩に鳴く音もなくなり、今はツクツクボウシが夕方鳴き始めてます。
今年は少し短かかったかな?アブラゼミさん。
暑い中、あれだけうるさかった声が、もうなつかしいなと。
来年も楽しみにしています。
あの細い脚で、ヒシッとしがみついてくる。
少し安心。可愛いなぁと思うけど、切ないんですよね。
小さい声で話しかけながら、力があれば樹の幹につかませてやったりするけど、もう汁を吸ったり出来ないのかもと、思いながら。
ちょっと、チクッとするギザついた脚の感触・強さは、いつでも思い出せます。
死んだあとで、仰向けになることはできないから、死ぬ前に仰向けになるということだったんだ。
セミは、成虫になる前に、卵から孵化し、その後、脱皮して、劇的に姿形が変わっていく‥
飛べなくなって、地面に転がった時、案外、セミは、「次は何が起きるのかな〜」なんてワクワクしてるかも‥
私は、そう思いたい‥
力尽きる時は、目は見えてない気がします。
そこに蟻が足音を立てて近付いてくる。
それが自分の体を補食するためのものであることを蝉は知っているのだろうか……。
ところが、最近の人間はそうではなくなってきている。
人類滅亡の日も近い。
透けるような緑色が、朝日を浴びて輝いていた。
だんだん鳴いているセミが少なくなって夏の終わりを感じる今日この頃だね。
子供の頃は網で捕まえるのが卑怯だと思って、只ひたすら手で捕獲した事がある。
もちろんキャッチアンドリリースなんだけど友達と朝から晩まで木に登っていた。
セミの最後はあおむけで力尽きるけど、しっかりと自然の一部に戻って行くって尊いと思う。
人も自然の一部なんだよね。なんも偉い事無いんだよね。
メスのセミや鳴いてないセミは割と油断していることが多い。
セミが道で死んでると、ああ可哀想に…って毎回思う。虫は苦手だけど、セミに関しては見かけると色々と考えてしまう。ほら!頑張って長生きしなよ!って祈るような気持ちで見てしまう。
精一杯生きているのかな~。
そういえば、子供の小3の時の担任がセミと米の調べ学習をウチの子供に強制的にやるよう指示してきたことがありました。
他の子供たちは自由に選べたのに、これはいったいどういうことなんだと不思議でした。
仕方がないと思ったのか息子は言われた通りにセミと米を調べていきました。
やがてアリのえさになるんだろうけど。
生物は、生まれたときから死に向かって時を刻む。
どんな死に方をするかだな。
蝉はたぶん子孫を残せたことで満足して死ぬんだろう。
動物は食物連鎖の中。
犬死には人間だけかも知れない。
この年になると、宗教家が悟りを開く境地が少し分かってきたような気がする。
弟の初盆で、僧侶が「人生はうたかたの夢のごとし」ってお経で読んでいた。
その通りだろう。時間軸は異なるが、所詮カゲロウと変わらん。
青筋立てて悪口雑言を言っている、赤ネクタイのじいさんを見ると憐れに見えてくるこの頃。
去年より声が少ないから数が少ない年なのかな
>では数週間から1カ月程度生きるのではないかともいう。
フムフム。
>セミの体は繁殖行動を終えると、死を迎えるようにプログラムされている
>のである。
ほうほう。
てことは、それは、「モテないセミほど長生き」と思っていいの?
夏の終わりに鳴いてるのは、売れ残り・・・と。
セミも、最後は長年住んだ土の上で迎えたいのかも。
コンクリの上で死ななくてもよい。
何も問題ない。
幼虫の期間も含めれば、圧倒的にカブトムシの方が寿命は短い。
クワガタは冬眠して越冬するらしいんだけど、そのまま眠ったまま死んでしまう個体もいるらしい。
まだ動いているのに蟻にたかられているものも見る。
季節外れに鳴くセミが子孫を残せるといいな。
兎角、効率やら経済力やらに振り回され、無駄を排除しなければならない、なんていう風潮なったからこそ、こういう一見無駄に思える事が無くならないで欲しいものだ。
ある意味、セミの一生というのは羨ましいように思えます。
秋が近いですね。
多分1匹だけで何蝉かまでは忘れましたが、とても衝撃でした。
歩行していたからこそ気づける程度でしたがこんな時期ハズレに…と切なくなりました。
人の一生も儚い^^
彼らはそれでも生きている、動いているのだ。
自分の体が無くなっていることが分からないのだろう。
情景が脳裏に浮かんできました。
夏も終わりますね。
庭の草むしりをしていたら、きっともうすぐ外に出られるはずだっただろう感じの蝉が、周りの土ごと、猫に掘り起こされて死んでいた。
それも自然の営みの一部かもしれないけれど
悲しかったな…
ほぼ水程度の栄養分なのに。
ネオジム磁石でも再現できない。
私もセミの鳴き声好きだけど、、あのジジジジ!と言われたらビックリして触れない。
そういうのがちょっと不思議
いつの時代も、夏が来れば蝉の鳴き声が聞こえてきます。人の一生も蝉と同様、はかない人生に思えてきます。
マンションの管理人さんがよく瀕死のセミを日陰の植え込みの上に移動してるけど、きっとセミは喜んでるだろうな。
切ないけど和む記事とコメントだわ。。
暑さ寒さも彼岸までですね…
8月中旬頃からツクツクボウシが鳴き始めると、小学生のころ「夏休みが終わっちゃう。。。」と淋しく思ったのを思い出します。
管理人の率直な感想
夏も終わりですね。
今年は梅雨が長く、雨ばかり。
天候が悪い日々が続いたせいで、夏が一瞬のように通り過ぎようとしています。
セミの声も少なくなってきました。
人間とは不思議なもので、暑い暑いとぼやきながらも夏が終わろうとするその時、ほんの少しだけ寂しさを覚える。
人間は成人するまでの時間が長い。
特に日本人は少年期が長いと言われます。
成人し、社会に出て自立すると、時間はあっという間に過ぎ去っていく。
きっと、自分の人生の最期を悟ったとき、それまでの人生が「長かった」と思う人は少ないのでしょう。
刹那的な人生。
セミと人間の一生は少しだけ似ているような気がします。
セミで言えば土に包まれた地中。人間で言えば親の愛情や扶養の下で長い時間を過ごす。
それから世の中に出ると、日々何かに追われ、何かを求め、何かを叶えようと願い、何かを遂げ、そしてまた何かを・・・一瞬のように日々が過ぎ去っていく。
気が付けば、まるで青春時代が夢だったかのような錯覚に陥る時もある。
僕らが仰向けになったとき。
人生の最期に何を見るんでしょう。
何を思うんだろう。
道に落ちているセミを見て、そんなことを思った今日この頃。
ん?
柄にもなく、おセンチな文章になったぞ。
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