新元号「令和」に沸く今日この頃。
今回は明治時代のお話。
『明治天皇は15歳まで京都で育った』という事実をご存知でしょうか。
そのため、「奥」と呼ばれる私的な生活空間では京都弁を使っていたといいます。
15歳といえば完全に言語の形成が出来上がっている年齢。
公的な場所では共通語(標準語)でも、「私的な場所や私的な時間では京都弁で話す」というのは自然ですし、ご本人も楽だったのではないでしょうか。
記録こそ少ないものの、若き日の明治天皇の私的な言葉が残っています。
明治天皇の「京都弁」
15歳まで京都で育った天皇には、公家の文化が色濃く残っていました。
その象徴が「京都弁」だったのです。
公式記録である『明治天皇紀』では文語体に直されているものの、天皇の私的な言葉は訛っていました。
特に奥と呼ばれる天皇の私的な生活空間ではそうでした。
側室の一人である柳原愛子(大正天皇の生母)の証言では、明治天皇は夏でも冬でも、政務では冬用の服を着用していたとのこと。
そのため、炎暑の日には汗が物凄いことになり、もっと涼しい服を着ればいいものを、明治天皇はこういって改めようとしなかったのです。
「何を着て居ても暑い時は暑いのや。これでえゝ。」
また、明治天皇は能が好きで、英照皇太后のため青山御所に能舞台を建て、自身もしばしばおもむいて観劇しました。
しかし、皇太后が亡くなると全く接点がなくなりました。
側近の岩倉具定が「御好き様なものなら、時々御催し遊ばしては如何でございます」と提案したものの、明治天皇はこれまた京都弁でこう言いました。
「一ぺん見ると、又あとが見たうなつていかん。」
岩倉具定の提案を退け、ついに能を楽しまなかったといいます。
並々ならぬ京都への愛着
長らく侍従として仕えた日野西資博もまた、明治天皇の京都弁を伝えています。
天皇は、臣下のごまかしや噓を非常に嫌いました。
物を壊したりしても、すぐに申告すればこのようなお言葉で済みました。
「是(これ)から気を付けや。」
しかし、誤魔化したり、後で発覚すると雷が落ちたように、このような発言をしました。
「お前、何を言つて居るのや。」
ごもっともな怒りではありますが、関西風の言い回しだと凄みも増して感じられます。
明治天皇の京都への愛着は、並々ならぬものがありました。
食べ物は、魚も野菜も京都方面から取り寄せたものを好みました。
中でも里帰りは格別だったようです。
1877年2月、24歳の明治天皇は、久しぶりに京都に赴いた際に、このように詠って喜びを表しました。
「住みなれし花のみやこの初雪をことしは見むと思ふたのしさ。」
東京に10年近く住んでも、明治天皇にとって京都は依然として「住みなれし花のみやこ」だったのです。
だからこそ同じ初雪でも、全く違って見えたのでしょう。
参照元:https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190423-00028368-president-soci&p=1
ネットの声
東京の資本主義の勝者が集まっている学校より、昔からのお付き合いが大事な京都の上流社会の方が何かと気が楽かも。
それに比べると現代は、地域差が少なくなったというか、均質化してしまってるなあと、ふと思いました。
ところでアナウンサーが使うような標準語が話せる東京人に会ったことがないが、みんな自分が標準語を話していると思っていて面白い
語尾や話す速度やクセが強くて、東京弁だなと感じる
先代までは御簾の中。そこから姿を現した途端、人間臭さを存分に発揮した感。
御陵は遺言で京都に造られたものです。
当時公家社会では左利きは忌み嫌われ幼いうちに右利きに矯正させられていたのに、明治天皇は左利きだったと言われるのはなぜか?
先祖は北朝のはずなのに、明治時代になって南朝が正統とされたのはなぜか?なぜ楠木正成像が太平洋戦争中の金属没収をくぐり抜け今でも皇居前広場にあり続けるのか?
子沢山だった伏見宮の皇子達に自らの皇女を嫁がせたのは、1人息子の大正天皇が病弱だったからだけが理由なのか?
以前、勤めていた宮廷料理人の話がありますね。
維新で政治の中心に成った事でご苦労もあったと思う。誰しも故郷は良いものです。
誰しも生まれ育ったところの言葉は一生抜けない。
本音は田舎の東京弁など使いたくはなかっただろう。
寧ろ明治天皇に親近感を覚える一面だ。
出来れば天皇は東京ではなく京都に移り住んで欲しいと願う。
ある日突然に遷都したって従者は京都と変わらないし徳川幕府が倒れた明治初期は薩長をはじめとした人が大量に入り込んだから言葉に関しては暫くは混沌としていただろう
それまでの和歌を嗜む「女性的」天皇でなく、日本が帝国主義国家に変貌する過程で、そうする必要があったのだろう。大久保利通らにとって、柔らかい京都弁は好ましくなかったのだろう。
そういえば大河ドラマ「せごどん」の中にも洋装をして登場し公家衆を驚かせたシーンがありましたね。
標準語で話しているときのイントネーションはどうだったのかとか、奥で話すときの言葉とか。
奥では京なまりだったんだねえ。
やっぱり女官言葉だったのかな。
その辺昭和天皇は田中義一更迭もそうだし、戦争に常に反対していたという文献が残っていて、戦後も天皇と国民のあるべき関係を模索してたような気がする。
今では京都の若い人も周りの府県と同様に画一的な関西弁を話すようになってしまってます。私は大阪出身ですが、たまに関西に帰ると若い人の話し方に違和感を覚えてしまいます。
サダムフセインも明治帝を尊敬していたとか
お気持ちだったことを嬉しく思います
考えてみればずーっと京都だから京都弁なんだよな。
すると秀吉は関西弁だったのか?家康は名古屋弁?
そう考えると今までのイメージがちょっと変わってくるな。
管理人の率直な感想
親しみを覚えるお話です。
日本は方言が多彩ですよね。
それぞれの良さがあって、そこに生まれ育った人にとっては思い入れが深いだろうし、故郷に帰ってその言葉を聞くとホッとするものでもある。
上京すると「東京弁で話さなくては」という風潮は何なんでしょうか。
公家の場合は、公衆の面前でお話をされることが多々あるので分かりますし、明治は今のようにメディアが発達していない時代なので、関西弁を知らない人たちにとっては聞き取りづらい言葉もあったのでしょう。
今はテレビやネットなどでいろいろな地方の言葉を聞くことができるので、上京したからといってそこまで標準語に拘らなくてもいいのではと感じます。
出会ったときに、その人との距離感も近く感じられるような気もしますし。
子供の頃に岩手県遠野市の語り部さんの昔話を聞く機会があったのですが、さすがに昔言葉になると理解できない部分は多々ありますけどね。
それでも温かさだけは伝わってきました。
昨今、日本の方言は薄くなってきています。
もしも『日本全国が標準語』なんて時代が来るとしたら寂しい限りです。
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