これまで筆者は風俗従事者の女性やホスト狂い、そしてトー横キッズに多く取材してきた。親のネグレクトや恋人からのDVなど、複雑な過去や事情を抱えた人ばかりだった。
死にたいのは「なんとなく」
彼らはしばしば私にこう言う。「死にたい」、と。
本当に今すぐ死にたいほどの悩みや苦しみを抱えているわけではない。心の内をもう少し丁寧に読み解くと、次のようになる。
「なんとなく死にたいというか、積極的に生きている意味がない。だから、最初から存在しなかったかのように、この世から消えたい」
かつて筆者は母親の再婚相手から性的虐待を受けていた。中学生になって間もないころからだ。嫌だけど何もできない。声を上げるには私は幼すぎたし、何も知らなかった。あの言い表しようのない無力感はいまも私の心にへばりついている。
大人になり、私はトー横キッズのミキ(仮名・17)に出会った。彼女は母からネグレクトされ、母の再婚相手からは性的虐待を受けていた。家出をし、ネットカフェで暮らす毎日。生活資金は売春をして、得ていた。
夜になれば、仲間たちとストロング缶を飲み、市販薬の大量服用でハイになってそのまま路上で眠る。そんな破滅的な生き方を見て、筆者はいつしか、かつての自分の姿をミキに重ねるようになっていた。昨年の11月、歌舞伎町のラーメン屋で食事をしていると、彼女はこう笑顔で話した。
「毎日、そろそろ死んでもいいかな~と思ってるけど、ここのラーメン食えるなら生きてていいやって思う」
その店は彼女のお気に入りだった。ほとんど2日に1回通っていたし、私も週に1回くらいは一緒に食べに行った。当時は私も適当に相槌を打っただけで、いつも通りのことを言っているな、と流していた。その一ヵ月後、珍しくミキから電話がかかってきた。夜の22時を過ぎたころだった。
「あのね、なっちゃん(筆者のこと)とよく行ってたラーメン屋さん、違う店に変わっちゃうんだってー」
ラーメンは唯一感じる「親の愛」だった
ミキが自殺したことを知ったのは、その1週間後だった。どうやら、最後の電話相手が筆者だったようだった。「なんとなく死にたい人」はSOSを発信しない。ほんの少しのトリガーでも、生きることへの意味を失う。生前、ミキと親しかったトー横キッズにこう話した。
「ミキが死んだのは悲しいけど、分かる。私も死にたいもん。私もいまの彼氏と別れたら、もういいかなって思ってる」
ミキと世界を繋ぎとめていたのは、トー横という場所、そしてお気に入りのラーメン屋だった。その「定点」を失ったとき、彼女はあっさりと死ぬことを選んだ。
彼女の死を知ったとき、私は言うまでもなく激しく後悔をした。なぜ、最後に電話をかけてきたとき、なぜすぐに会いにいかなかったのだろうか。お気に入りのラーメン屋はチェーン店だ。電車に乗り、2つ先の駅にもあることを教えて、なぜ連れていってあげられなかったのだろうか。
ミキの死後、一度だけ彼女の母親に会いに行ったことがある。私がした質問は一つだけだ。
「ミキがラーメン好きだって知ってましたか?」
母親は顔を俯けて、こう悲しげに答えた。
「そうだったの。思えば、私とミキがまだ2人で暮らしていたとき、ほとんど毎日一緒にインスタントラーメンを食べていた気がするわ」
ラーメンはミキが唯一感じることのできた「親の愛」だった。そして、ラーメンを食べることが、破滅的な生活のなかで見つけた小さな「生の喜び」だった。「そんな理由で死ぬなんて…」と思う人もいるかもしれない。
しかし、心に傷を抱え、なんとなく死にたいと願う子供と世界を繋ぐ糸は、我々が思う以上に脆く、細い。
彼らにとっての小さな「生の喜び」を見つけ、掬い取って上げることが我々、大人ができることなのかもしれない。
参照元:https://gendai.media/articles/-/100500
生きる意味・自殺願望【みなさんの声】
ホッとできる場所、瞬間が、お気に入りのラーメンを食べているときだけだったのかな
親の一番の務めのひとつは、こどもに安心できる居場所を提供し、自分は受入れられている、生きていていいのだ、
そうこどもが感じ、信じて生きていけるようにしてあげること、だと思った
「そうだったの」と「毎日インスタントラーメン」
がすべてだよ。
親って自然となるものじゃない。
親になろうと思った人しかなれない。
でも、自分とつながってる人がいるから踏みとどまれるんだよ。
そういう人が一人でもいれば結果は変わっていたかもしれない。
残念だね。
あの子達は自分が何故存在しているのか
死を恐怖と感じなく
やっと解放されるって方向に考えが向く
どんな子供だろうが、温かく迎え入れてくれる家庭がなきゃ、生きる為に身体売って生活はしない
未成年だから逃げ場がないのよ
大きくなって意味がわかるようになってからは、自分が汚くて歪で気持ち悪くて、何も考えたくなくて眠ると悪夢を見て起きて、ずっと苦しかった
他から見たら「何となく」に見えるのかもしれませんが、地獄のような苦しみでした
苦痛にまみれた一生を送るより幸せかもしれない
生きていれば良いこともある、とは思うがそれを他人に無責任に言えはしないな
特にこんな過酷な生い立ちの人には
ただ社会が必ずしもこんな子達を守らなければいけないと言うのも少し理不尽な話なので、死にたければお好きにすれば良い気もする。
俺もショック。花道の屯ちん無くなって、変わりに壱○家入ったときは絶望した。屯ちんの油増量味噌ラーメンにライス付けたいんだよ。
可哀想になー。
若者が将来に希望を見いだせなくて些細なことでジシするのは昔からよくあることだけど、昔からよくあるからといってあっても良いというわけではない。なんとか防止する必要がある。
両親とは早くに絶縁している
今はいい大人で結婚もしているけど子供は作らず、自分が生きている意味や価値は配偶者に求められているから以外にわからないまま精神科に通院しながら生きています
20代前半で大好きな身内が次々に亡くなり、自身も病気になり、メンタルが不安定な中で懸命に働くも給料が安く、働いても持ち出しや生活費や税金の支払いでお金は貯まらない。
まさに「消えたい」と感じていたし、母にそう言ってしまったこともあります。
実家の家族・友人の支えや仕事を退職し、まともな環境になったことで、今は落ち着きました。
今後は、私が家族や友人を支えたいと思い、日々生きています。
幼い頃に愛情を受けなかった、それどころが存在を否定された人間にどうやったら、そうじゃないと思えるようにしてあげれるんだろう。
瞬間的に寄り添う事でその場は保つことができても、生きていれば揺れ動くものだ。
誰が何と言おうと、あなたはあなたで良いのだと腹の底からそう思わせてあげる方法があればどんなにいいだろうかと思う。
心から愛していたし、今でも姿を探してしまう。苦しい。
でも、止められなかった。
時間が経って、今考えても、おそらく止められなかった。
止められたかも、いう想いはわかります。今でも思います。
でもおそらく、これは本人にしか止められない。
他の人に言われたからやめる人は、人がいなくてもやめられるのではないでしょうか。
全ては結局、本人次第なのだと思います。
でも、残された人は、悲しさと後悔と無力感に一生苛まれます。
だからこそ、亡くなった人は、愛しいけど、憎い。
死ぬほど会いたい、話したい。
でも、顔も見たくない、出会わなければ良かった。
心がバラバラで、まとまらない人生を生きる自分が、弱くて嫌になる。
でも、生きなければ。
残された人にこんな気持ちを味わわせたくない。
すみません、私個人の気持ちです。
死が近くにある中でただ存在を続ける形で生きている人は案外沢山いる。死に寄り添って生きているというか、セットで存在しているというか。身近にも意外といたりする。
彼女にとってのラーメンのように、ほんの少しの拠り所が沢山ある世界が好い。
ほんの少しの拠り所を多数持つことで今を凌いでほしい。
その後に生きていて良かったと思える何かが彼女彼たちに訪れる事を祈ることしかできない。そこに愛がありますように。
自分は死ぬ勇気より、生きる勇気を選択したので、何も言えることはありません。
この先の日本を見れば死んだほうが、、、
と今の政府を見ていると凄く思いますよ。
ただ一言、悔いの残らない方などないのだけど、自分が納得できる生き方を選んでください。
僕にとっての救い主はラジオの伊集院さんだったけれど、他の誰かにとっては違うと思うし、最終的に生きることを決定するのは自分であるので、筆者の人がトー横キッズの子を救えなかったこと自体は仕方がないことだと思います。
でも、他の誰かにとって筆者の行動が救いになっていたのだとしたらいい活動なのかもしれないなと思いました。
まとまりがないですが。。。
そしてその子は別にラーメン屋がなくならなくてもいつか他の理由で亡くなってたと思う。
生きてることが素晴らしいとか、生きてるだけで価値があるとか。
そういうのは満たされているか、乗り越えるかした人だから思えることです。そうでない人には無理です。
生きてるだけで苦しいんだから。
肯定する私は少数派かもしれませんが、私としてはむしろ何故他人の選択を否定できるのかと。そっちの方がわかりません。
水際で阻止しても、その人の抱える問題は残ったままなのに。そのときだけ止めるのは止める側の自己満足に過ぎないと思うのですが。
生きていればそのうちいいことがある。
これも根拠がありません。その可能性は高いでしょうが、100%ではない。
ほっとけばいいと思っているわけではありません。
そのときだけ止めるのでは不足だと思っているだけです。
「元気なフリして日々過ごすって人は星の数」だよなぁ〜
右肩上がりの成長が終わり
時代の変化のスピード
情報の多様性
社会の一層の複雑化
大人でもわからなく進む道がわからなくなってるいま
子供や若い子ならなおさらに感じられます
とあるカウンセラーさんにかけてもらった言葉です。
毎日、希死念慮との戦いですが、根源は幼少期の淋しさのトラウマにあると最近分かりました。
生きてていいのかな?
存在していいのかな?
そう思いながら生きていくの、ツラいです。
トー横のような拠り所すらない子供達はどうしているのか心配です。
私は思うよ
やって後悔よりもやらなくて後悔の方が数倍辛いって
自分の事もわからないのに人はもっとわからない
特に人に何かしてあげようって気持ちになったら
例えばそれが面倒な事でもやった方がきっと双方に良い結果が出る
甘えは抜きにして
自己満足にならないように助けられる方の気持ちになって何かをしてあげられたらって
私も助けて貰いたいもん
誰かの一言、誰かの笑顔、誰かの手で救って欲しいよ
その時わからなくてもいつか、いつか、生きていれば感謝も出来るし生きてて良かった!って思える日もある
辛い事も沢山あるけど生きてるだけで誰かの役にたってるって私は思って今日も生きてる
明日もきっと生きてるよ
この子たちに向き合うことが出来る親や保護者がいれば、孤独を抱えたまま人知れず自死を選ぶ子供は生まれないはず。
大人と言える年齢の人たちは年齢だけ重ね、子供のまま子供を産み、ろくに向き合わず家に居場所を作らず放置し、こういうことになるんじゃないかと思う。
親が「生き方」を教えてない。
体の成長と共に精神的にも社会で生きていけるよう育てることをしていない。
親が自分の快楽優先で、食事の面倒を避けるためインスタントラーメンなどを与え、丈夫で健康に育てあげようなどという育児ポリシーもなく、親自身異性にだらしなく、その日暮らしのように生きている…。
子供が半グレでも無関心。
親自身が子供のまま。
そういう人の子もまた真っ直ぐ成長できず、社会に、根無し草のように漂流する…
行き場のない青少年が集える場所が必要かも。
健康的な食事を無料で提供してくれるとか、大人が勉強をみてくれるとか、そこへ行けばほっとできる場所。
結局、誰も自分に真剣に向き合ってくれず、生きる目的がないから死ぬことにも抵抗がなくなる。
記事の子は、好きなラーメンを食べるのが唯一の生き甲斐だったのだろう…。
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