友人はどう選べばいいのか。福厳寺住職でYouTuberの大愚元勝さんは「お釈迦様は悪友を避けて善友を求めよと教えている。たとえば『六法礼拝経』には、付き合ってはいけない4種類の人と付き合うべき4種類の人について説いている」という――。
※本稿は、大愚元勝『ひとりの「さみしさ」とうまくやる本 孤独をたのしむ。』(興陽館)の一部を再編集したものです。
仏教は「誰とでも仲良くしろ」とは言わない
「人」という漢字は、二人の人が寄りかかっている姿から作られた象形文字です。「人間」という言葉は、人の間(人の間)と書きます。これらの言葉が示す通り、人は、一人では生きていけません。だから家族をつくり、仲間をつくり、社会を作って、互いに助け合いながら生きています。
仏教では、こうした社会の中で私たちが関係するすべての人々を「友」と呼んでいます。しかし、一口に「友」といっても、世の中には、色々な「友」がいます。
当たり障りのない友もいれば、悪友もいれば、善友もいる。仏教では、「悪友を避けて、善友と関わりなさい」と教えています。
そのような話をすると、「え? 仏教は誰とでも仲良くしなさい、という教えではないのですか」と意外に思う人もあるかと思います。けれどもお釈迦さまは、道を成すためには、「善友がすべて」とまで言い切っておられるのです。なぜか。それは、私たちが身近にいる人の影響を常に受けるからです。
電車に乗ったとき、街に出たとき、そこで目にする集団を観察してみると、そのことがよく分かります。彼らの服装、髪型、髪の色、話し方、話している言葉、立ち居振る舞い、などなど。彼らの思考、言動に多くの共通点を見つけることができます。
もともと似たもの同士が集まってグループができたのでしょうが、その似た者同士が、常に一緒にいることで、さらにお互いが影響を与え合い、その特徴が強化されていきます。
悪友のそばにいれば、悪友の影響を受けるし、善友の側にいれば、善友の影響を受ける。知らず知らずのうちに、否応なしに、友の影響を受けてしまうのです。だから、お釈迦さまは、意識して友を見極めることの大切さを説かれたのです。
善友と悪友の見極め方
では、どのような友が、真の友と呼ぶべき真の友で、どのような友が避けるべき友なのでしょうか。その見極め方は、シンプルです。その友の「言葉ではなく、行為を見る」のです。その友の「言葉ではなく、成したこと」を見るのです。
口先だけの人は、時に美しい言葉を語ります。時に甘味で巧みな言葉を語ります。しかし、そこに行為が伴わない人、自分のメリットのためにしか行動しない人、道徳的ではない人は、真の友ではありません。言葉ではなく、行為を見る。言葉でなく、その人が成したことを見る。それが、善友の見極め方です。
「普通の友達さえいない」と言う人へ
先に、「善友をもつことが大切」という話をしました。けれども、実際には、善友を得ることは簡単ではありません。善友どころか「自分には普通の友さえいない」と、一人ぼっちの寂しさを感じている人もいます。
私はYouTubeに「大愚和尚の一問一答」という、悩み相談番組を開設しているのですが、そこには「孤独感」に苛まれている方々から寄せられる相談が少なくありません。決して引きこもっているわけではない、普通に会社に行き、普通に仕事をして、普通に生きているけれども、ふとした瞬間、一人ぼっちの「孤独感」に襲われるというのです。
SNSを通じて大勢の人々と繋がっているようでいて、実は孤独。インターネットを通じて、世界と繋がっているようでいて、実は孤独。多くのファンを抱える芸能人であっても、実は孤独。多くの社員を抱える社長であっても、実は孤独。帰る家や家族があっても、実は孤独。そんな孤独が現実にあるのです。何を隠そう、私自身も、かつてはそのような孤独感を抱えて生きていました。
孤独でいることは、実はチャンス
しかし仏教は、そんな私たちに「孤独」に歩むことの大切さも教えているのです。『スッタニパータ』という経典の中に、次のような一節が説かれています。
「われらは実に朋友を得る幸せを褒め称える。自分よりも勝れ、あるいは等しい朋友には、親しみ近づくべきである。このような朋友を得ることができなければ、罪過(つみとが)のない生活を楽しんで、犀(さい)の角(つの)のようにただ独り歩め」
ここでいう勝れた朋友とは、善友のことです。犀の角とは、孤独のことです。お釈迦さまは、修行僧に向かって「善友を求めよ」と説かれました。しかし善友が得られないのなら、「孤独に歩め」と鼓舞されたのです。
一見矛盾するような教えですが、ここに真理が説かれています。修行僧とは、高い志をもって道を成そうと歩む求道者です。寂しいからといって、寂しさを埋めたり、暇をつぶすために、他人と交われば、振り回されたり、甘えたり、頼ったりして、自立心や集中力を削がれ、目標を見失ってしまいます。
もしあなたが「孤独」を感じているならば、それはチャンスであることを知ってください。
自分と向き合い、自分の成すべきことに、自分が成したいことに、時間とエネルギーを費やすのです。
犀の角のように、ただ独り歩む。するとあなたの心技体が向上します。
心技体の向上とは、人格の向上です。あなたの人格が向上すれば、類は友を呼んで、そこに自然と善友が現れてくるのです。
経典に書かれている「付き合ってはいけない4種類の人」
「悪友を避けて善友を求めよ、しかし善友が得られなければ、孤独に歩め」
お釈迦さまの教えは、常に明確で具体的です。『六法礼拝経(ろっぽうらいはいきょう)』という経典の中には、「避けるべき4種類の人」と、「付き合うべき4種類の人」が説かれています。
避けるべき4種類の人とは、次のような人です。
①何でも取っていく人
自分が与える時は少なく、もらうは多く受け取ろうとする人。自分の利益の身を追求する人。
②言葉だけの人
行動が伴わず、口先だけの人。「あのときは、ああしてあげた」と過去のことを恩に着せて、友情を装う人。「今度、こうしてあげるから」と未来のことに関して友情を装う人。なすべきことが迫ってくると、「都合が悪い」と逃げる人。
③甘言を語る人
目の前ではお世辞を言い、裏では陰口をたたく人。うわべだけのうまい言葉を語って、中身がともなわない人。
④遊蕩(ゆうとう)の人
飲酒、麻薬、ギャンブルに溺れる人。
自分自身が「付き合うべき人」になるために
付き合うべき4種類の人とは、次のような人です。
①助けてくれる人
元気がないときに守ってくれる人。正常な判断ができなくなったときに正しい行動に向かわせる人。
②苦しいときも楽しいときも一様である人
窮地に陥っているときに、見捨てない人。辛いときも一緒にいてくれる人。
③自分のためを思って話してくれる人
悪い道に入らないように忠告したり、大切な情報を教えてくれる人。
④同情してくれる人
上り調子のときには、一緒に喜んでくれる人。一方で、落ち目になったときに心配してくれる人。
人から悪口を言われたときに、弁護してくれる人。
心が弱っているとき、心が欲しているとき、心が憤っているときには、悪友が寄って来やすいものです。
だから、人間関係の苦しみを手放すには「どのような人と付き合い、どのような人と付き合わないか」の基準を持つこと。そして、何より大切なことは、あなた自身が「付き合うべき人」となれるよう、人格を磨き、友に寄り添うこと。
ツキを呼び寄せるのも、不幸を呼び寄せるのも、普段のあなたの人間関係に依るのですから。
参照元:https://president.jp/articles/-/49329
みなさんの声
そしてそんな沢山の友達がいると①②に該当する人もいて、何度も労働や物を搾取された。
お人好し。ハッキリ断れ!と言われそうだが、そう言う人達は断っても、それはスルーして自分の思い通りにさせようとする。此方は断っているのに通じない、が続き追い込まれてしまう。
今の友達は3人。無理しない距離感と似たような価値観で心地良い関係が長く続いている。人間関係に無理は禁物だとつくづく思う。
仲のいい人間関係は、べったりしているのがいいわけではなくて、お互いに相手を思いやれるかどうかだとは思うけれど、それも相手がどう思っているかがわからないと、結局独り善がりだし
とりあえず、信頼を無くさないように心掛けるしかないです
友達は多い必要はないのかもしれないですね。
自分の所属しているコミュニティでの仲間。
合わないと思ったら、コミュニティを変えればいいだけ。
『友達なんか要らないんだよ』
核心突き過ぎててスゲェわ。
寂しさから人を求め、相手の顔色を伺って付き合っていた頃はずっと相手に振り回され利用される人間関係でした。
コロナ禍と体調不良が重なり(コロナではなく)、全ての人から一歩引いて付き合いを見直して、一人の時間が増えましたが、孤独を満喫することで、良くない関係の人との縁は切れたし自分が本当に求めている友達とはどういう人かがハッキリして、今は数は少ないけど本当に好きな人とだけ付き合うようになりました。
漠然と心掛けながらも、いざ語ってみろと言われても上手く語れなかったが
読んでみて腑に落ちた。
今一度自分を見つめ直しながら、この先の人生を考えていこうと思う。
社会人になると気楽に話せる人がおらず、孤独を感じたりしたなぁ。
でも、孤独って確かにチャンスかも。
自分の場合は、孤独であるからこそ時間もたくさんあり、初めてパソコンを自作してみたり、家のリフォームをやってみたら意外に面白くて子供の頃、何かに熱中していたあの頃に戻れた感じ。熱中すると色々自分の中にアイデアが生まれたり、あれもやりたいこれもやりたいとなってくる。
そうすると孤独であることが気にならなくなり、むしろ自分の楽しみに時間を費やせるようになったと言うか。
これに慣れると孤独とか感じることすら無くなったなぁ。今でも友達一人しかいないのに。
孤独は人を賢者にするって言葉もあります。
仕事上の付き合いは取引先や同僚を含めて数多くありましたが、リタイヤ後に付き合いが続く人は多くはありませんね。でも、それが良いというということでしょう。
友人だったら、損得抜きですし、気兼ねすることもないので長く続きます。
幸いなことにお金に困っている友人はいないので、お金の貸し借りなんかでの変なトラブルもなし。情報の貸し借りはありますが、有益な情報はお金よりよほど役に立ちます。
変に気を使わないで済むから長く続く友人であるわけだし、当然、「付き合ってはいけない」種類の人は抜け落ち、「付き合うべき人」しか残らないのは道理ですね。
人生を豊かに生きるためにも、悪友か善友か、しっかり見極められるようになりたいですね。
避けるべき事は悪友と付き合うことです。
と一方的に要求してくる人は友達ではないし、同じくらいのことを人にすることはない。
困っている時に「できることがあれば言ってね」とそっと伝えてきて、さらっと助けてくれ、後で恩着せがましいことも一切言わない人は本当の友達。
なかなかいないから大切にした方がいい。
子供の時に、友達が少ない子は良くない子と言わんばかり。
私の小学校では、校内で自分だけの年賀状を入れるポストがあり、自分の住んでいる地区を紙に書いて置いておくとその子に年賀状を出したい人がその紙を持って行くのですが、意地の悪い子が誰は何枚とかいちいち休み時間ごとに調べに行くんです。
意地の悪い子は、友達がいないので脅して年賀状を書かせるんです。
私は、おとなしくて年賀状が少ないと思っていたのですがクラスでも多くもらえている方になれましたが、途中全然地区を書いた紙をもらってくれる人がいなくて、いじめっ子に散々からかわれました・・。
今思えば、あんな人気投票みたいな年賀状ごっこなんかしない方が良かったと思います。
本当に、少ない子は泣いていました。
私も、本当ならば泣く子に入っていたんですから安心しましたが、喜べませんでした。
友達100人できるかなの歌を幼少期に保育園で歌っていた世代で、小学生から虐められて
友達作るのが下手になり、それからどんな人が寄ってきても自分は人から受け入れてもらえないのだから自分には選べないと思い、人を選ばず来るもの拒まずで誰でも受け入れていました。
そうしたら、気が付いたら悪友ばかりでした。私をお金目的で利用する自称友達
体目的で利用する人・・・色々な悪友や男が寄ってきました。信じていた家族の一人からも裏切られました。 気が付いたら、私は自分を大事にすることが何なのか分からなくなっていました。でも心の中は寂しさで悪友と知りつつも関係を切れなかった時代もありました。
けど、本当に寂しいのは 友達がいたとしても何も心の交流がないならそれは孤独です。
それなら友達などいない方がまだ ましです。
なので、今は無理して友達作ろうとかしません。
せっかくの人生、悪友なんかに悩まされず、心豊かに生きていきたいですね。
これは私のポリシーそのものだわ。
でも仏教は仏陀が書物を残してるわけでもないし、経典も仏陀が生きていた時代の関わりのある人間が書いているわけではなく、時代も人種も様々で、「お釈迦様が仰るには」→自分の意見をお釈迦様が言った体にして権威付けしてるだけだから、良いこと言ってることもあるけど、糞みたいなんも結構混じってる。
キリスト教の裏切り者のユダと同じような立ち位置の提婆達多に関しても、極悪人は最期に壮絶な苦しみの死に至るが、改心とかはさせてない。
仏教って基本的に「悪人は地獄行きだぞ」でおわるから、「皆仲良くしましょう」ではないと思う。
仏さまくらい高みにある人が導いてくれるんだろうか。
凡人はそんな大それたことはできないだろうから、善友を選ぶことに懸命になるしかないよね。
実は人といることはエネルギーを使うものであります。
ましてやおせっかいや不必要な攻撃なんか無駄なエネルギーは使いたくないものです。
お金を払うのがお客様ではなく、店と一緒に成長してくれる人が神様だと常々思っています。
コロナでみんな大変な時だからこそお互いを高められる関係が本当のお客様と店の関係、「俺はお客様だ」と好き勝手いう人には「あなたはうちのお客様ではありません」と言う気概が必要だと改めて思いました。
ある心理学では、全ての悩みの原因は対人関係にあると言われています。
個人的には、人という字は支え合ってるよりも自分1人で歩いている姿に見えます。
とにかく動く、行動するってことが大切だと思っています。
すばらしい友達ができた自分に少し自信を持ってもいいのかもと思う。
でもやっぱりこんなすばらしい人と自分なんかが一緒にいていいのかなと思ってしまう。
その友達の時間を汚してしまってるんじゃないかと思ってしまう。
でも自分なんかと友達になったんやからそんなすばらしい人じゃないのかもとも思う笑
まあその時一緒にいて楽しけりゃなんでもいいやね。
善友が出来なければ、1人でいたほうがいい。
孤独を恐れるあまり、変なのと一緒にいるほうが心が休まらない。
個人的にも、ひとり時間を楽しめる人のほうが好き。
どうして、学校は友だちたくさんいないとダメな奴認定を勧めるのかな。そんなこと、ないのにな。
って良くわからない自慢をする人。
その中に、いざというときにあなたを助けてくれる人は何人いるんですか??と問いたくなる。
少なくてもいいから、損得なく心から付き合える家族か友人が1人でもいたら、それでいいかな。
ブッダの教えの通り、そう言う人がそばにいないなら、1人のほうがいいな。
20数年の付き合いも、この人はそんな風に思っていたんだ。
わかち合った日々が、一瞬で消える。その、悲哀は筆舌に尽くし難い。自分で選ぶのではなく、自然に引き合うものだと思う。
年を取ると、流れに任せ、孤独を楽しむ。そんな境地に達する。
何も優しくするだけが友人ではない。
自分の為に怒ってくれる人を善友だと思い大切にしていこう。
これは正しいと思う。交友関係は無駄なことに金も時間も吸い取られる。納得して吸い取られるならまだしも納得できないやつとは付き合うべきじゃないね。
だから個人的にはマスメディア関係者と宗教関係者は絶対に付き合ってはならない人間だと思うわ。
まぁ、普通に考えたら、仏陀なりキリストは迫害されたりした経緯も有るから、本当に理にかなった教えなんだよね。そう言う偉い人でも嫌う人が居るんだから、全ての人に好かれるってのは無理だと悟ったけれど。
手塚治虫のブッダは本当に一度読んでみる価値は有るよ!
私はそんなに偉くない一般人だから。取り敢えず、身近に接する人には気配りを忘れないようにしてる。
日本の仏教は何故か妻帯しますが、もともと性行為すら厳格に禁止されるのが仏教。
ブッダは親と妻と子を捨てて出家します。
ただ人と寂しいから、常識だからと群れているようでは安寧は訪れないという教えが仏教です。
しかし、やってきた結果や責任のとり方が本当の政治家の姿を表す。
言葉に惑わされるな。
いや、社会に出た大人たちも同じ。
絶対に付き合ってはいけない4つの要素を兼ね備えた政治家を切り離せないのだから。
漠然と心掛けながらも、いざ語ってみろと言われても上手く語れなかったが読んでみて腑に落ちた。
今一度自分を見つめ直しながら、この先の人生を考えていこうと思う。
確かに、私の周りにはこの記事で言う「悪友」しかいなかったなぁ。
一緒にいても楽しくなかったので、距離を置くようにしました。
勉強になります。
ありがとうございました。
こんな目に遭った、ひどい奴だ、それくらいなら孤独がいいと一生懸命批判する。
そうすると善友になりそうな人にとっては、他人を悪く言う悪友そのものに映る。
いつまでも孤独な人は悪友になりそうな自分になっていないか、省みないといけない。
ところが60も後半になったら、50年近くも音信不通の悪友たちからの誘いが来た。何を今更って思い丁重に付き合いを断った。今更下らない付き合いなどバカ臭くて御免である。
付き合っていかなくてはいけない人ではあるが、付き合ってはいけない。
そしてその上司は、いまコロナで自宅療養中。会社の近場の人は誰も陽性じゃないから、どこで拾ってきたのか。
そして決まって時間にルーズで言い訳だかけ、体型がだらしない。
個人的には太っている人とは仕事でもプライベートでも付き合わない。が鉄則です。
でもかまってちゃんでもあるから
ブッタなら後世の坊主に俗世にたかるなよとか
遺言を残しといて欲しかったね
まだまだ修行が足りない。ただ独り歩めってことか。
椅子取りゲームの人生。
有り難く思ってます。
またお願いします。
仏教の教えに共感する
人間なんて皆んな腹黒です
自分が与える時は少なく、もらうは多く受け取ろうとする人。自分の利益の身を追求する人
これを読んで、ある国を思い出しました。
謝罪や要求ばかりを追求する人達とは付き合わなくていいんですね。
お釈迦様のお墨付き。
過去形なのは、そいつは僻地に飛ばされたから。
新米メタボ40代おとん。
そして助けてくれる人もまぁいないだろうね。
孤独に生きて腐乱〇体になる道まっしぐら。
寒い国、一党独裁の国、南北の国。
確かに4つだ。
敬虔な宗教信者
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