ハーメルンの笛吹き男。
なぜ130人の子供は消えなければならなかったのか… 。あらすじ
1284年、ネズミの害に悩まされていたハーメルンに、奇妙な「まだら男」がやって来る。このあだ名は、さまざまな色の布をパッチワークした上着を身につけていたからで、本人は「ネズミ捕り男」と称していた。
彼はネズミを退治する代わりに報酬をもらう約束を市民たちと取り交わすと、さっそく笛を吹き、その音につられて集まった町中のネズミを、ヴェーザー川まで導いて溺れさせた。ところが市民は約束の金額を出し渋り、男を町から追い出した。
6月26日のヨハネとパウロの日(旧夏至祭)、男は違う服を着て再び現れ、路地で笛を吹いた。すると4歳以上の子どもたち(中には市長の成人した娘もいた)が集まってきて、男のあとをネズミと同じように付き従い、市門を出て山の方へ向かい姿を消す。赤子を抱いた子守の少女(異説には、盲目の子と聾の子)だけが町へもどり、それを知らせたのだった。
行方不明になった子どもの数は130人。捜索隊は手がかりを見つけられず、親は悲嘆にくれ、この事件は市の公文書に記された。
湿地の恐怖、深い闇を作る森、残酷な公開処刑…
ハーメルン市民にとっては、ご先祖様が約束を反故にして復讐される話がそう楽しいはずがない。にもかかわらず7世紀以上も延々と語りついできたばかりか、今現在も演じ続けている(子どもたちは行方不明者役、及び着ぐるみのネズミ役)。それはこの不思議で無気味で哀切な伝承の裏に、何かもっと、語られている以上のものが隠れていると誰もが感じ、いつまでも記憶にとどめるべきだと信じているからに他ならない。
先述したように、同時代人は消えた子どものことを公的文書に残した。それから20~30年ほど後の14世紀初頭、文字の読めない大多数の住民のために町の教会(マルクト教会)のステンドグラスに、ガラス絵が描かれた。もはや現存していないが、幸いにして16世紀後半に模写された彩色画が残っており、これが最古の「ハーメルンの笛吹き男」図となる。
絵から得られる情報
まず左に大きく描かれているのが、ラッパ風の縦笛を吹く男。帽子も上着もズボンも赤・黄・緑・白の縦縞模様だ。履き物は中世に流行した極端な先尖り靴。もとより放浪の楽師なので派手で目立つ格好をしていた(それにしても皆が驚いたというのだから、どこか通常とは違っていたに違いない)。
右下にはヴェーザー川が流れ、岸沿いにハーメルンの町。教会の塔が目立つ。ヨーロッパの都市は当時どこも城塞都市だったから、周囲をぐるりと城壁に囲まれ、いくつも門がある。川に近い門からネズミの大群が出てゆき、その先の小舟で笛吹き男が笛を吹く。
画面中央に森をあらわす木々が描かれ、近くには沼。鹿が3頭いて、1頭が沼にはまって沈みかけている。このあたりが命にかかわる危険な湿地帯だということが示される。
脇の坂道を、笛吹き男に先導された子どもたちが上ってゆく。彼らの出た門が、いわゆる不浄門であることは、道の先の山裾に絞首台が見えているのでわかる。当時の処刑方法は貴族なら城壁内の広場で公開斬首、平民は城外で絞首刑がふつうだった。ここには首吊り台だけではなく、処刑された罪人も2人描かれている。こうして見せしめに放置されるのも一般的だった。
またその横の、巨大な独楽のようなものは何だろう。実はこれも処刑台だった。拷問も兼ねた車輪刑。ブリューゲル作品に時々出てくるので知る人も多かろう。
当たり前のように描かれたこれら中世の日常―外敵や獣から住民を守る城壁、跋扈するネズミの大群、異界からやってきた見知らぬ人間、湿地の恐怖、深い闇を作る森、残酷な公開処刑―は、当時の人々がいかに死と隣り合わせで暮らしていたかを物語る。そんな彼らにとってさえ、子どもたちの突然の失踪は激しいショックだったのだ。なぜか?
子どもたちの失踪が与えた衝撃
13世紀末ドイツの小さな町ハーメルンで、130人の子どもが忽然と消えた……。
当時の町の規模から考えて130人がどれほどの大人数だったか、後世の我々にも何となく想像はつくが、近代のハーメルンに当てはめるなら2000から2500人相当だろうとの研究結果もある。驚くべき空洞の発生だ。しかも原因は戦争でもパンデミック(疫病の世界的大流行)でもない。対象が老若入りまじっていたわけでもないし、長期的な漸減でもない。少年少女たち―町の活力源、未来の働き手―だけが、たった半日のうちに一挙に町からいなくなったのだ。衝撃の波が他国にまで拡がったのも頷けよう。
そして当然のことながら、口伝えの過程で話は膨らんでゆく。グリム兄弟の『ドイツ伝説集』は、主に16~17世紀の資料をもとに編纂されたものだが、子どもが消えた1284年からそれまでの間で、庶民に直接影響を与えた歴史的大事件といえば、14世紀のペスト禍 (ヨーロッパ人口の3分の1ないし2分の1が死んだとされる最大規模のパンデミック)と魔女狩りである。この2つが「ハーメルンの笛吹き男」伝承にも影響を与えたのは間違いない。
なぜなら古い文献のどこにも、グリム伝承の前段に当たるネズミ退治のテーマは見られないからだ。
文献が語る「ハーメルンの笛吹き男」
まず同時代人による市の公文書だが、あまり詳しくはない。「今後は子どもたちがいなくなった1284年を起点にして(まるでイエス誕生を西暦1年と定めたように)市の年代記を記す」という程度である。つまり、今年は我らの子どもらが連れ去られて何年目、というように数えようと言うのだ。
実際、16世紀後半になってもなお、新設された市門にはこう彫られていた―この門は魔法使いが130人の子どもを連れ去ってから272年後に建てられた、と。
また事件から20~30年後に描かれた例のマルクト教会のステンドグラスには、絵の他に碑文も書かれていたという。現存していないが、絵と同様その文章も書き写されており、概略はこうだ―ヨハネとパウロの日(6月26日)にハーメルン生まれの130人が、引率者に連れられて東へ進み、コッペン(古ドイツ語で「丘」「小山」の意)で消えた。
もっと具体的に記された最古の記録は、15世紀半ばの『リューネブルク手稿』である。筆者はおそらく修道士。この事件を古文書で知ったという。曰く、1284年のヨハネとパウロの日に、ハーメルンで不思議なことが起こった。30歳くらいの男が、橋を渡ってヴェーザー門から入ってきた。身なりが立派だったので、皆、感心した。彼は奇妙な形の銀の笛を持参しており、それを吹くと、聞いた子どもたちが集まってきた。そしてその130人の子たちは男の後をついて東門を抜け、処刑場の方へ向かい、そのままいなくなった。母親たちは捜しまわったが、どこへ消えたか誰もわからなかった。
これが話の骨格だったのだ。
ネズミも市側の裏切りもない。単に見知らぬ男が来て笛を吹き、子どもらと共にいずこともなく消え去ったというだけ。しかし1284年という年号と130人という数は中世のどの文献にも共通し、この具体的数字の生々しさによって、事件が現実に起こったことがうかがえる。
ネズミはペストと密接に結びついている…
童話風の趣を持つようになったのは、さまざまな時代的要素が加わった後だ。本来は皆が驚く立派な身なりだったのに、「笛を吹く」という要素が強調されて放浪の辻音楽師的イメージになり、そんな身分の低い貧しい者の服が高価であるはずもないとして、色が派手で人目を惹いた、と変化してゆく(英語のPied Piper も「まだら服の笛吹き男」)。
また笛特有の魔的な音色は、誘惑の象徴につながる。先述した市門建設の際に「魔法使い」という言葉が使われたのは、まさに魔女狩り最盛期であった。この時期、笛吹き男は魔女の仲間と見なされたのだ。
またネズミはペストと密接に結びついている。もともとはネズミの病気で、その血を吸ったノミがさらに人間を刺すことで感染した。もちろん当時の人にそうした科学的知識はないが、ネズミの大発生とペスト流行が同時だったため両者の関係に疑いが持たれた(ネズミの激増は、田畑を増やそうと城外の森林を伐採、開墾して、ネズミの天敵イタチや猛禽類や蛇が減ったことによる)。実際にネズミ捕りを生業にする者も存在していた。
こうしたことが、事件の骨格を飾り立てることになったのだ。
世界中の研究者がこの謎を解き明かそうと…
皆がよく知る「ハーメルンの笛吹き男」の物語から童話風の装飾をぎ取れば、それはごく単純な――しかしもちろん衝撃的な――事実の羅列となる。即ち、1284年のヨハネとパウロの日、ハーメルン市に身なりの立派な男が現れ、笛を吹いて130人の子どもを集めて連れ去り、消息を絶つ。その後、杳として行方が知れない。
男は誰だったのか、なぜ子どもらは男について行ったのか、どこへ連れてゆかれたのか、生きているのか死んだのか……。
何世紀にもわたり、世界中の研究者(日本では故・阿部謹也が有名)がこの謎を解き明かすべく、さまざまな論考を発表している。それをテーマ別に分類するだけで30種近くになるというのだから、この話の内包する魅力の強烈さがわかろうというもの。
17世紀にはヴェーザー川での溺死説が出たが、これはネズミを川におびき出したという後世の創作に影響されたのかもしれない。20世紀末になると、小児性愛者による猟奇殺人説が発表された。いかにも現代的な推理だ(途方もなさすぎる)。
この新旧2つの説の間に、捏造説、死神説、山崩れでの生き埋め説、底なし沼での事故死説、野獣襲撃説、誘拐説などが並ぶ。
【有力とされている説】子どもたちの身になって考えると
有力とされる説をいくつかあげておこう。
何らかの伝染病に罹患した子どもたちを、町の外へ連れ出して捨てた
要するに、自分たちを守るためやむを得ず病人を犠牲にしたわけだ。可哀そうなことをしたとの慚愧の念が、子どもらを忘れまいとする市全体の総意となったということは十分ありうる。しかし少年少女だけが罹る伝染病というのは考えにくいし、この説には肝心の笛吹き男の存在感がどこにもない。
処刑場近くの山は、キリスト教が入ってくるまでは古代ゲルマンの祭祀場で、夏至祭(当時はヨハネとパウロの日と名を変えられていたが)には火を燃やす。笛吹き男に誘われた子どもたちが見に行き、崖から転落死した
――祭りを盛り上げるため雇われた放浪の音楽師が、子どもらを煽って真っ暗闇の夜の山道を歩かせ、遭難させる。全くないとは言えないが、怪我だけですんだ子もいたはずだし、住民が死体を発見できなかったのもおかしい。第一、古い文献はどれもこの事件が日中に起こったと明記してある。
舞踏病に集団感染し、踊りながら町を出て行った
――これは遺伝性のハンチントン病(旧ハンチントン舞踏病)とは異なり、中世によく見られた一種の集団ヒステリー。祭りの熱狂の中、自然発生的に起こり、狂乱状態で踊り続けて、時に死に至る(たいていはしばらくすると憑きものが落ちたように呆然とするらしい)。単調で抑圧的、なお且つ死の危険が身近にあった中世人が陥る爆発的躁状態だ。ただしハーメルンだけで一度に130人、それも子どもだけというのは説得力が弱い。
「子供十字軍」としてエルサレムへ向かった。笛吹き男は徴兵係
――現実に「子供十字軍」の悲劇は各地で起きていた。非力な少年少女が従軍しても、港に着く前に行き倒れたり、船に乗れても難破したり、果ては奴隷として売られることも少なくなかった。ハーメルンの子が巻き込まれたとして何の不思議もないが、しかし逆にどうしてハーメルン市だけが十字軍のことを隠したかが新たな謎になる。
ハーメルンでの未来に希望が見いだせず、東欧に植民するため移住した。笛吹き男は新天地がどんなに素晴らしいかを、笛ではなく言葉で吹聴(ふいちょう)し、また金をかけた衣服によって豊かさを誇示し、子どもたちをその気にさせた
――今のところ、この説がもっとも有力視されている。同時代に創建された東欧の村々に、ハーメルンという名がいくつか見られるのもその証拠という。ただこれまた完璧に問題なしとは言えない。なぜ130人のうち誰ひとり、故郷と連絡を取ろうとする者がいなかったか(子孫でもかまわないはずなのに)という点だ。
つまり、まだ万人を納得させるに足る定説はないのだ。研究は続けられており、「ハーメルンの笛吹き男」を読む楽しみは尽きない。
それにしても、この伝承における子どもたちの身になって考えると恐怖が押し寄せてくる。妖しい魔笛の音に操られ、夢遊病者のように歩きに歩いて、気がつけば見も知らぬ異邦の地に佇む自分がいたとしたら……。
参照元 婦人公論
例えば流行り病や飢饉で村全てが困窮し、口べらしの為に、自ら進んで子供達を何らかの集団に売り飛ばした。
自分達が人身売買したとは言いにくいが、我が子を売った自責の念は消えない。
それを「さらわれた」との表現に代えて、二度とこんなことをしないようにとの自戒を込めて記録したのでは。
お菓子の家で有名なヘンゼルとグレーテルも、元は親が口減らしに子供を捨てる話だったし。
例え売り払われたとしても130人もの人数を働かせる場所があるのかとか、そもそも街単位でそこまで金に困る理由とか説明のつかない部分は多いね
記事のなかにも子供十字軍が奴隷売買の被害にあった、とあるので、子供の労働力目当ての大量誘拐とか
なので、人身売買はないかと思います。
0~10歳くらいの子たちがお昼寝中にネズミに噛まれて病気になって亡くなったという見方もあるかなと思います。
私の祖母は町で沢山の人が天然痘で亡くなっていき、祖母も感染してしまいました。祖母が今のように良い薬も治療法もない時代に感染して医者も匙を投げていたそうです。
「あの嫁は助からない明日には死ぬかも?」
祖母が無事回復しましたけどしばらくは髪の毛が抜けてしまい。
筵を被って過ごしたそうです。
髪の毛がフサフサに戻るまで辛かったみたいです。
以前テレビで特集やってました
あくまでも笛吹男は空想の存在だとか、いろんなことを言われていましたが
ネズミによる鼠害でかなりの食糧難であったは間違い無さそうなので十分有り得ます
原作では実母です。
ですから、あながちその考察もあり得ると思います。でも、健康は子供たち全てが行方不明になったのが引っ掛かりますね。
日本ならば、荒ぶる土地神や妖怪、鬼などに生け贄として差し出す、人柱にする、などはありましたが、それほど大人数ではありません。
青髭のモチーフになったジル.ドレ(少年を何百人も虐待、虐殺した)もハーメルン以上の数の子供が行方不明になっていましたが、なかなか発覚しなかった。
メディアが今とは違い、未発達だったので、権力を持つ、土地の支配者や貴族が青髭のように子供たちを殺害したのかもしれませんね。
真相は闇の中。
でも、
その原因が子供達にあるという長老?の迷信に惑わされたとしたら…?
いなくなった子供たちが各地に散ってたら無理だけど
問題は東欧説の場合、その場所が分らない事だね
無作為に探しまくるのは無駄だろうから
当時の住民が非人道的なことをやって多くの子供たちが犠牲になったと考えるほうがしっくりくる。
笛吹き男が医者で、連れられた子供たちは各地で天然痘の治療に協力していたと。
だったら明るい話なのに。
ただ途中で亡くなった子もいて英雄として奉られたと
東欧に奴隷として売られて、そこで生き延びた子は大人となり結婚し子供にハーメルンとなずける。
故郷に戻らなかったのは、親に捨てられたことを知ってたからでは?
ハーメルンでも飢饉か何かで奴隷商人に子供を売らざるを得なかったのではと思います。
>この話の元となった町はドイツのブレーメンですが、
これ元々はハーメルンじゃなくてブレーメンなの?
舞台を変えて伝承してるってなかなか奥が深い事情があるのかなぁ
なにか、この話は、村人の後ろめたさを感じる。
ただ、ハーメルンは港町で潤っていたそうなので実際のとこどうなんだろう。
笛吹き男が子どもたちをさらって、遠くの街に奴隷として売ったのでは?
子沢山だけど食べさせていけない。とか。
当時の歴史や文化を学ぶ手がかりになることがあるんだよな
現実にも未解決の子どもの行方不明事件が起きているので、あまりにも見つからないというのは、人為的なものなんだろうと思います。
それも何万人も…
こうやって見ると、当時の世俗など、
勉強になりますね。
日本でも昔、人身売買の周旋屋は身なりも良く、売られる女性に行先での贅沢な生活を吹聴したり、いかにも未来が明るい様に楽しげに振る舞ったそうですから。
恐ろしいですね。
しかし駆除したにも関わらず、村が約束を守らなかっために怒った笛吹男が子供たちを連れ去った。
のような感じです。
ネズミは食べ物がないと繁殖しないので、貧しくはないでしょう。
村ぐるみで何か後ろめたいことでもしたのでは。
子供は楽しげな音楽に引き寄せられる習性を上手く利用した笛吹き男ですね。
なのでこの記事はなかなかに興味深く真剣にに読みました。
この記文は面白かった。
《赤いくつ》なんかも掘り起こせば何か出てくるのだろうか
訳の分からぬ恐さがありました。
くだらない記事が多い中、久々のヒットです。
アンデルセン?
下敷きになった話があるのかもしれないですが。
赤い靴はうろ覚えですが、子供への戒めのお話なんでしょうね。
保身のために第三者を作り上げて、戒厳令を敷き、加害者である自分達を、被害者にした、というのが、一番筋道が通るように思います。
視力を失っていた、という。
笛吹男役の先生も面白い先生でお芝居も愉快だったし、ネズミ役の上級生も、子供役の上級生の
お芝居も愉快だったので(ネズミ役数十人が「わーいわーい」等と言いながら笛吹男役の後ろに付いて客席を一周、子供達役数十人も「おじさんについて行くー」等と言いながら笛吹男役の後ろに付いて客席を一周みたいな感じ)子供の頃は楽しい話だと思っていました。
因みにネズミは『ネズミの国へ行った』、子供達については、大人達が笛吹男に「お金は必ず払いますから返して下さい~」と言った所で幕。
今よくよく読むと怖い話ですよね。
今でも劇が演じられているのが驚きです。
ピアノを弾いた事もあり、このハーメルンの歌がなんでか好きでずっと覚えてましたが、、
確かに考えると怖い話ですね^^;
着ぐるみ従業員が過酷な労働に身を投じる奴隷の国ですね
良性の天然痘の菌を持つ子供達を選び、うつしながら村々を回った、という説ですね。
マスターキートンの説が一番しっくりくるし、そうであって欲しいな、と思います。
私もこの説が好きです。
マスターキートンも大好きです。
欧州の歴史のなかで蔑視され続けてきた
少数民族ロマを正面からそして正当に描いた
素敵な作品でしたよね
でも、大人の今思うのは、役目を終えたら帰ってきますよね、、、
ちなみにモロー展をやっていたとき、中野京子さんの特別講演を聞いたことがある。テレビで見たのと同じ、可愛らしい話し方でニコニコしながら生き生きと怖い話をしていました笑
短い講演だったけどとても面白かったです。
整理してもたくさんの学説があって、この問題に取り組む研究者の多さに驚いたっけ。
説としては弱くとも、東欧移民説はすごく魅力的だった記憶がある。
研究者自身の熱い思いを感じたなぁ。
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