作家・小川糸さんに、ホスピスが舞台の小説『ライオンのおやつ』で描かれる死生観と、東京とドイツの二拠点生活についてお話をうかがいました。
人は誰でも死ぬ。恐怖を取り去る物語を書きたかった
作家・小川糸さんの新刊『ライオンのおやつ』(ポプラ社刊)は、余命いくばくもない30代の主人公・雫が、瀬戸内海の光輝く島のホスピス「ライオンの家」で暮らす日々を描いた小説。「死」を迎えるまでを描いているにもかかわらず、とてものどかでやさしく、生きる喜びと愛おしさにあふれている物語です。読者をホっとさせる世界観は、小川糸さんならではです。
そこで作者の小川さんに『ライオンのおやつ』のこと、現在、ドイツと日本を行ったり来たりする日々とライフスタイルについて、お話を伺いました。
―ライオンのおやつ』は主人公の「死」を描いているにもかかわらず、陽だまりのように暖かいお話でした。執筆したきっかけは、執筆前にがんで亡くなられたお母さまがきっかけだったのですね。
小川糸さん(以下、小川)
母にがんが見つかり、余命宣告を受けたとき、母は「死ぬのが怖い」と怯えていました。そんな母に、私は「誰でも死ぬんだよ」と話しました。そのとき、世の中には母のように死を恐怖と感じている人は多いのではないかと思いました。確かに死は、暗幕で遮られているような閉ざされた世界ですが、でも人の数だけ死はあり、実は日々の暮らしの隣にあるような、とても身近なものなのではないかと感じていて…。私自身は、死んだ後にどんな世界を見られるのか楽しみにしているんです。
それで、私が考える死の世界を物語の中で体験していただいて、死ぬのが怖くなくなるような物語を書いてみようと思いました。
―主人公は余命いくばくもないけれど、「ライオンの家」で素敵な人々と出会い、幸せな暮らしを営みながら、自分の人生を振り返りますよね。とても理想的な日々だと思いました。
小川
人生の終わりにはゆるやかな移行期間があり、それは余命を知る人でないと体験できない不思議な時間ではないかと思ったので、そんな時間を書きたかったんです。この小説を書くために、ターミナルケアのお医者さんの取材をし、現実を踏まえた上で「こういう人がいたら雫は心強いだろうな」というキャラクターを作り上げたり、居心地がいいと思われる場所や暮らしを描きました。
初めて、最初から最後までベルリンで執筆した小説
―「ライオンの家」に登場するおいしそうな食事やおやつ、生活習慣の描写は、小川さん自身の丁寧な暮らしが見えるようでした。いまベルリンにお住まいで、ドイツと日本を行ったり来たりの生活だそうですね。
小川
はい、そうです。「ライオンの家」は、初めて最初から最後までベルリンで書いた小説です。小説を執筆するのに、生活環境の変化はあまり関係がないことが、今回わかりました。でも、小説の中身がドイツの影響をまったく受けていないとは言い切れないです。自分でも気づかないところで、土地の空気に影響をされることはあると思います。
参照元:https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191114-00010002-halmek-life
ネットの声
いかにも健康な人が他人事として死を語っているなと思ってしまった。
死ぬのが楽しみなんです、ってアホか!と思った。
すごく薄っぺらい
諦めた先に怖くないと自分に言い聞かせるならわかる
でも例え身内であってもそれは他人が言うことではない
怖さを感じることは命の大切さを知るためにも必要なことだと思う
自分の環境にもよりますが、子供がいると、この子達と別れたくないという気持ちが強いです。
義父母や祖父母の安らかな死に顔を見たときに、死って怖くないかもと、死人を前にそんな感情がわきました。
いずれ皆死ぬんだからと。
しかし、普通の日常に戻ると、そんな感情は忘れてしまったりと。
難しいところです。
死ぬのが怖いなんて当たり前。
大切な人が死ぬのも怖い。
楽しみなはずがない。
安らかに過ごせたらいいとは願うけど。
怖いと身内にやっとの思いで打ち明けたのに「誰でも死ぬんだよ」なんて言われたら、絶望します、そして、この人には、もう何も言うまい…と諦めます。
お母さま、可哀想。
健康で、まだまだ先があると思っているからこんなことが言えるんです。
じわじわと、体が痛くなり、息苦しくなる体験でもしてきたらどうですか?
ただ…
やたら小洒落たセリフを並べたてた女性誌の1ページを見るような?違和感しか感じられず。
結論として
私は読むことは無いですね。
やりたい事をやって死んでいく。普通は死が近づくにつれて、やりたい事、これまでできた事が出来なくなっていく。時には壮絶な痛みや苦しみを伴って。でなければ、尊厳死なんて考え方は出てこない。ここまで軽く、死は怖くないなんて言える人って、一生懸命生きてんのか?と疑問に思ってしまう。
脳梗塞発症から3年の入院生活。
今年7月にステージ4の末期癌が判明。
手術適用外で今年一杯の余命と宣告。
本人には医師から説明して頂きました。
母は私に「聞いた?」
「うん。聞いたよ。」
私は根拠もなく「人には寿命があって、最期は皆ガンで亡くなるものだよ。」「それ以外の人はガンになる前に亡くなったということ。」などとはぐらかすような言い方しか出来なかった。
それからはほぼ毎日病院で話をしたり、食事のサポートをしたり穏やかな日々でした。
亡くなる
てっきり、自分も死にかけたのかと思った。未経験の人が死を語らないで欲しいわ。
頭の中、お花畑?お母様の死ぬのが怖いってほうが、リアルだし、人間らしい。
意識が朦朧とした中で、うわごとで「怖い、怖い」と言っていました。
私には何が怖いのか(暗闇の中で怖いのか、恐ろしい物がいるのか)、わかりませんでした。
残された人生を有意義に過ごしても、やはり死ぬことは怖いのではないかと思います。
余命を有意義に過ごす事と、死への恐怖とは違うもののように思います。
人間は、って言うか動物はみな、本能的に死の恐怖があるから、生き延びて種を残すことができるんだと思います。
ほんとに怖くありませんか?と聞きたい。
お母さんの余命を宣告されたら、まず冷静にはいられないのだが…
怖くないのはあなたはであって、お母さんではありませんよね?
考えは自由ですけど、もう二度と死を前にした人にそんな言葉を言わないで欲しいと思いました。
というか、あなたはお母さん亡くすの怖くなかったんですか?
私は身内の死を前にして怖くて悲しくて仕方なかった。
死は怖いです。自分にも、人にも。
怖くないと信じられるかどうかは別の話。
私は死の淵を歩きながら(たまたま運良く?)生還してきたが、徐々に死とかはどうでもよくなって(どうせそのうち自分の番が来るから)、どう生きたか、を考えるようになっていった。
取り敢えず、胸を張れるような生き様をしようと。
ところが、なぜか生き残って帰国してしまって困っているw
結局この作家さんも、批判してるコメ主さんも当事者ではありません。
世の中に苦しんでいる当事者が沢山いるとして、その方たちに一方通行でも、慰めとなる何かを提供するのは良い事ではないでしょうか。
でも自分は恐怖の中で亡くなるよりはできれば安らかでありたい気もするから、『死への恐怖をやわらげる』ようなどんなことをこのかたが書かれたのか、興味はある。
楽しみだなんて言えるのはまだ無縁だからでしょう。
怖いけどお迎えが来たら仕方がない。
怖いですよ。
自分の死も、大切な人達の死も。
この人の本は読まない。
死後の世界があると知っていたら誰だって知らないより怖くない。
みんな同じだから怖くないことなんて、死ぬこと以外でも無いんじゃないかな。
瀕死の重症とか、余命宣告とか、経験あるのかな?
でもそれは死ぬようなことを経験していないから。
お母さんの気持ちに寄り添ってあげたのかな?
私は現在闘病中、死ぬのが怖いです。
毎日涙が出てきます。
ただ死に方が怖いと思うよ。
毎日自分はどんな死に方するんかなーって考えてる。
通勤中なんかは事故るんかな、対向車と衝突するんかな、横から信号無視が飛んでくるかなとか、自分が突っ込むかもな、崖から落ちるか崩れてきて、ゆっくり頭が潰れて頭蓋骨がメキメキ音が聞こえるのに動かないで死ぬの覚悟できるかな、とか。
どうしようどうしようって怖くて想像してるんじゃない。
どんなだろうって。
もう一つは死んだことに気が付けるか気になってる。
気がつかずにふらふらとしてて、生きてる人に迷惑かけるのは嫌だから。
お母さまとは 子供の頃からの強い確執が最期までぬぐえなかった様子や
「もうそろそろ亡くなる、とわかった」のに
「最期は看取れなかった」、とか…
非常に独特なクールな方に思える発言されてましたので、作品に共感できません。
死んだらどうなるんだろうか?って考えに陥ったが答えなど出る筈もなく、結局死ぬのが怖くて生きながらえてきた
よく死ぬ気になれば何でも出来るって言うが、自分の場合は死ぬ勇気がなかったから生きる事を選択せざるを得なかった(苦しかったが…)
今はもう絶望はしてないが(達観はしてるけど)やはり死ぬのは怖いな
だから今一生懸命生きる。
死ぬって怖くないって言えないな。私は。
死ぬことはこっちの世界では別れになるけどあっちの世界ではおかえり!って感じらしいので死んだ後は恐くないと思う。
逆に赤ちゃんが産まれてくる時に泣くのはあっちの世界からいってらっしゃい!と送り出され不安だから泣くみたいですよ。
現実的な話では母体から出てきて寒いからとか呼吸するのに泣くとか言われてるけど…
転げ回るほど痛いよ。
死って痛みの先にあるんだよ。
怖いよ。
そして辛いよ。
そんなに簡単じゃないよ。
痛みに弱いのよー
はぁ?
断言できちゃうのか。
貴方、死んだことあるんですか?って聞いてみたいね。
怖いとか怖くないとか、どちらかと言えば怖いんじゃないかと大概は思いそうだが。
病室のベットで最期に、こちらを恨めしそうな目で見ながら死んでいった。死ぬってそういう事。怖くて、憎たらしいものなんだよ。
ただのキレイゴトですわ。
ホントにその身になった人の気持ちが分かるから。
でええやん。それが自然やで。
1回もハンバーグを食べたことがない人が、ハンバーグ美味しいよって言っても誰も相手にしないよね
その恐怖を少しでも取り除けるかもしれないから、読んでみようと思う。
ただその恐怖はあるがままに目の前のやるべき事をやりつつ日々生きて行くしかない。
当たり前の風景に「生きる」があふれていると、気づかせてくれた。
それができないから誰も言わない。
恥知らずだと思いませんか?
子供を置き去りにしなくてはいけない状況だったら死んでられない、死ぬのは怖いはず!
何無責任な発言してんの?
こういう人嫌い。
死んだことも死ぬよ感も死ぬ間際を経験したものが、死ぬのは怖くないと言う薄っぺらさよ
だから、嫌な事があっても生きてるの!
怖くない奴は、鬱か余命少なく諦めてるか開き直ってる人だけ!
毎日知らずのうちに寝て、朝めざましが鳴って起きる。
寝てたと気付くのは目が覚めたからである。
うとうとして寝てしまい、ふと何かの音で起きる。ああ、寝てしまっていたと気付くのは起きたから。
死とは起きることが永遠になくなること。
つまり自分がいつ死んだか、死んだことにも気付かずに人生は終わる。
全く同じことを皆が経験している。
生まれた瞬間を覚えている人はいない。
親が教えてくれたから自分がこの日に生まれたんだと知る。
死とは主観でで認識できるものではない。
死を認識できるのは第三者、客観的な認識でしか成り立ち得ない。
管理人の率直な感想
「誰でも死ぬんだよ」というのは誰もが分かり切っていること。
重要なのはその人がどのような人生を歩んできて、今まさに死が見えた時にその人生を振り返りどう思うかだと思うんです。
死への恐怖自体もそうですが、後悔や懺悔、まだ生きたいという欲求、幸せだったかそうでなかったか。
北斗の拳のラオウが放った「我が生涯に一片の悔いなし!」というセリフは有名ですが、そんな人に「誰でも死ぬんだよ」なんて言わないでしょう。
個人的には、気休めだと思うし、もっと言えば突き放した感も覚えます。
「死」ですよ?
死を待つのみの人が「人は誰でも死ぬものだ」と言うなら受け入れますが、健康な人間が言ったら無責任とも言える。
生と死は世の理ですが、そんな簡単なものじゃない。
なんだかな~です。
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