東京都豊島区の帝国銀行椎名町支店に「東京都防疫班」の腕章をした男が現れたのは、1948年1月26日、午後3時過ぎのことである。
「近くの家で集団赤痢が発生した。この予防薬を飲んでもらいたい」
だが、男が差し出した「予防薬」は劇薬の青酸化合物だった。疑いを持たず薬を飲んでしまった行員ら11人はただちに死亡。搬送された病院でも1人が死亡した。男は現金約16万円と、約1万7000円の小切手を盗み現場から逃走した。
平沢冤罪説の論陣を張っていた松本清張
事件から約7カ月後の8月21日、警視庁はテンペラ画家・平沢貞通(56歳)を北海道・小樽市で逮捕した。取り調べに対し、平沢は一時「犯行」を自白したものの、一審の公判以降は否認に転じ無罪を主張している。
7年後の1955年に平沢の死刑が確定。もっとも、事件をめぐる不可解な謎は残り、平沢の死刑は執行されなかった。
死刑確定後も再審請求を続けた平沢であったが、1987年5月10日、八王子医療刑務所にて95歳で獄死した。逮捕から実に39年、死刑確定から32年もの間、獄中から無実を訴え続けた平沢は、死刑制度をめぐる存廃議論にも少なからぬ影響を与える存在だった。
清張は著書『小説帝銀事件』(1959年)において、真犯人は旧日本軍の「731部隊」関係者である可能性を示唆し、事件はGHQ統治下の「日本の闇」のひとつであると位置づけている。
平沢が冤罪なら、真犯人は誰なのか――容疑性が強い人物として実名が取りざたされたこともあったが、確定判決を覆すほどの決定的な証拠はついに見つからなかった。清張は平沢が死去した1987年、次のように語っている。
「七三一部隊説はあくまでも想像だが、『疑わしきは罰せず』の精神からいけば平沢は無罪ではないか」(朝日新聞1987年5月12日)
清張のみならず、そう考える人はいまも多い。この事件が「未解決」とされるゆえんである。
「仙台拘置支所の面会室で密かに撮影した平沢の姿です」
さて、39年間の獄中生活を送った平沢の後半生がどのようなものだったのか、それを伝える資料は極端に少ない。
確定死刑囚の外部交通は厳しく制限されており、面会はもちろん、手紙のやりとりすら自由ではない。再審を担当する弁護士や指定された親族、拘置所側が許可したごく限られた関係者だけが、平沢と「外界」をつなぐ人間であった。
ここに1枚の写真がある。薄暗い面会室のような場所で、老いた男性が笑みを浮かべている。
「1969年に、私が仙台拘置支所の面会室で密かに撮影した平沢の姿です」
そう語るのは、共同通信のカメラマンだった新藤健一氏(79歳)だ。
「私が知る限り、生きている平沢の写真はこの後、撮影されていないと思います」
1948年に逮捕された平沢は、長らく旧東京拘置所に収監されていた。支援者らが慌てたのは、死刑確定後の1962年、宮城刑務所に併設された仙台拘置支所に平沢が移送された時である。
当時の東京拘置所には死刑執行施設がなく、死刑囚の首に縄をかけて足元の床が開く音から「バタンコ」と呼ばれていた死刑執行は、仙台拘置支所で行われていた。死刑囚が恐れる「仙台送り」がついに平沢にも訪れたというわけである。結局、平沢は1974年に東北大学医学部付属病院に移送されるまでの12年間をここで過ごすことになった。
平沢が仙台に移送された2年後、昭和の東京五輪が開催された1964年に新藤氏は共同通信にカメラマンとして入社。同社の仙台支社に配属となった。
「住んでいたアパートの前に仙台拘置支所の高い赤レンガの塀があり、そこに死刑囚の平沢がいることも当然、知っていました。当時のキャップだった小林治雄記者と相談し、平沢の現在の姿を撮影できないか、計画を練ったのです」(新藤氏)
新藤氏以前にも、平沢の「獄中写真」が公開されたことが1度だけあった。最高裁が上告を棄却し、平沢の死刑が確定した1955年4月6日の当日、東京新聞の石井幸ノ助カメラマンが東京拘置所の面会室で隠し撮りをした写真が、当日の夕刊に掲載されている。
もっとも、当日の平沢は刑が確定していない「未決」の扱いで、面会そのものは権利として保障されていた。確定死刑囚となった平沢との面会は、そう簡単ではない。
「私も小林記者も本名で差し入れをしていましたが…」
新藤氏は1968年より、「平沢貞通氏を救う会」のメンバーとして、画家だった平沢に「雪の松島」などの写真や画材の差し入れを続けた。死刑囚との関係性を強める「実績作り」の一環である。
「私も小林記者も本名で差し入れをしていましたが、不思議と報道関係者であることは当局に察知されませんでした。そのあたり、当時はチェックも厳しくなかったと思います」(新藤氏)
差し入れを繰り返すこと10カ月、面会のチャンスが訪れた。
1969年7月9日、新藤氏は仙台拘置支所を訪れた。「救う会」メンバーとして安否確認の面会が許されたが、「事件に関する会話は禁止」との条件付きだった。
「背広の内側に、縦8センチ、横13センチ、28ミリワイドのレンズを装着したニコンSPを隠し持って面会室に1人で入りました。小型ですが、スパイが使うような特殊なカメラではありません。ボディチェックをされたら終わりでしたが、それはなかった」(新藤氏)
2メートル四方の面会室に入ると、新藤氏が座る椅子の横に1人、アクリル板の向こうにも1人、計2名の拘置所職員がすでに待機していた。会話内容の記録と監視をするためである。
平沢が入室してきた。新藤氏とは初対面である。許された時間は15分。挨拶もそこそこに会話が始まった。
「どんな絵を描いているのですか」
「いま知人にあげる雪の富士山を描いています。大きさは、これくらい」
平沢は手を大きく広げてみせた。
「もしシャバにいれば、いまごろはテンペラ画の人間国宝ですよ。いまほしいのは画材、特に色紙と麻紙です」
「うれしいことです。自分は無罪に違いないのです」
親子以上に年の離れた2人の会話が続く。「浦島太郎」になっている平沢に新藤氏が質問した。
「入所以来、世のなかは大きく変わっていますが?」
「最近は“団地”とやらがあるのも新聞などで知っています。一家一族がバラバラに生活するのは、あれはよくありませんね。映画もときどき見せてもらえるし、ラジオも聴いてますから、ほとんどのことは分かりますよ」
「衆院法務委員会での話は聞いていますか?」
「今朝、磯部(常治)弁護士などからウナ電(至急電報)で知りました。うれしいことです。皆さんのおかげです。自分は無罪に違いないのです。しかし、関係者のメンツもあるので、恩赦があればそれも喜ばしいことです。つい2、3日前、法務大臣あてに無罪の陳述書を出したばかりでした」
禁じられた「事件に関するやりとり」にだんだんと接近していく。緊張のやりとりを新藤氏が振り返る。
「何とかして写真を撮らなければという一心で、話をしっかり聞く余裕はなかったですね」
15分が過ぎた。拘置所の職員が「そろそろ」と打ち切りを促したとき、新藤氏は左の脇に右手を伸ばした。
左に座る職員に気づかれぬよう、カメラの本体を平沢に見せると、平沢は大きくうなずいた。幸い、平沢の隣の職員は筆記のため視線を下に落としていた。
新藤氏はやおら立ち上がり、大きな声を出した。
「どうも、どうも……ありがとうございました! 平沢さんもお元気で……また来ます!」
その大きな声で、シャッター音はかき消された。それを見た平沢も立ち上がり、身を乗り出した。平沢が体の角度を変え、職員からカメラが見えないように死角を作ったのが分かった。
「お世話になりました。また来ますからね!」
もう一度、シャッターを切った。平沢が微笑んだように見えた。拘置所の職員は、最後まで着席したままだった。
「普通は1枚ですけどね。大丈夫だとは思ったけれども、やはり撮影できたかどうか不安だった」(新藤氏)
「すぐに公表することはできなかったですね」
社に戻り、すぐさま暗室でフィルムを現像した。ノーファインダーで撮影したにもかかわらず、カメラは見事に平沢の表情をとらえていた。頭髪はすでに白く無精ひげを生やしていたが、カメラに目線を向けたその笑みは、長い拘禁生活においてもまだ、平沢に人間らしい感性が残されていたことを物語っている。
「撮影自体は成功しましたが」
と新藤氏が語る。
「すぐに公表することはできなかったですね。やはり、撮影が禁じられている場所ですから、発表すれば拘置所内で責任問題になり、当事者に迷惑を及ぼすことになる。写真は封印して、記事は“救う会の会員”が面会した話と、平沢が描いた絵を合わせて出稿しました」
この写真が撮影された5年後の1974年10月、82歳になった平沢は体調を崩し、前述の通り東北大学医学部付属病院に移送された。このとき、共同通信は初めてこの写真を公開したが、その際も撮影者や日時の公表は控えている。
平沢貞通の「最後の写真」は、何を物語るのだろうか。
「私個人としては、平沢は真犯人ではなかったという心証を持っています。松本清張の作品はもちろん、事件に関するさまざまな本を読みまして、私は平沢の人柄について理解につとめました。彼が撮影に自ら協力したのは、著名な画家であった平沢のアーティストとしての気質が大きかったのではないかと思います。金のために大量殺人を計画した人物と、写真を撮影させるために立ち上がった平沢が、私のなかではどうしても結びつかないのです」(新藤氏)
平沢の遺族は2015年、第20次再審請求を申し立てており、事件はまだ終わっていない。自ら獄中写真の被写体となった平沢の執念は、いまなお生ける人々を動かし続けている。
参照元:https://bunshun.jp/articles/-/59745
平沢は真犯人か?冤罪か?【みなさんの声】
おそらく永遠に結論は出ないのであろう
全く、白ってわけでもないんだよな…
NHKはさかんに旧日本軍説やっていたけど。
松本清張も今みると明らかな間違いもあるし。中立に立った検証を期待するけど、陰謀論が先行してるし無理だろうな。
殺っていないなら、殺されようと自白しないが生きる道(自白調書が裁判で利用される)。
しかも昔特有の自白→一転否認という。
真犯人であろうと言う憲兵の親族も現代に生きているのでしょう?
石井四郎の娘が何かの取材に答えた肉声テープがあるのにびっくりした
よく取材に答えたもんだな
そこまでしない限り冤罪は防げない。
松本清張が詳しく書いているけど。
疫病の予防なども、米軍が主だって行っていた時代だから。
ところで、画家があんな手の込んだ殺人を犯して、わざわざ自由に絵を描ける自分の生活を壊す危険を犯すだろうか?
平沢氏も実行犯ではないが関係者だったと読んだような。
平沢さんもそうだし、もう釈放されたが袴田巌さん。
あと名張毒ぶどう酒事件の奥西さんも執行されなかった。
考えただけでも恐ろしいな
GHQ絡みだと解決までは至らないですね。
心は顔に出るのです。
どうしても殺めた人に見えない。
正してあげて下さい。
大金の出所を言わなかったのは、本当ですか?
昔の話ではないし、「疑わしきは罰せず」は守られていない。「物的証拠重視」のはずが未だに自白は重視されるし、その自白の任意性も取り調べの可視化が行われていない以上は疑いがある。「検察は先にストーリーを作って、それに従って調書を作る」というのは、佐藤優氏の著書などによってもよく知られるところです。
さらに、メディアも国民も推定無罪を無視している。逮捕の時点(有罪どころか起訴さえされていない)で被疑者の名前も顔も晒され、検察・警察と記者クラブを通じて結託するメディアは、「やった」と思えるようなリーク情報を書く。
民間レベルでも、起訴されれば有罪が確定前でも勤めはクビになる。
「起訴されれば99%が有罪」の実態がこれです。他人事ではない。
その程度の人権感覚だったから昭和50年頃ぐらいまでの警察捜査も軽微な犯罪者や前科者を犯人に仕立て上げるのがたまにあったんじゃないか?
冤罪の可能性があると分かっていて死刑囚にした警察、検察、裁判官の罪は重い。
若い人が果たしてどれだけ興味をもってるか。
平沢の死と共に事件は埋もれてしまったのだ。
真犯人を探すことより冤罪を隠すような後味の悪い事件。
大きな事件も痴漢も
犯人は731。
そんな立証責任は被告人にはないし、「疑わしきは被告人の利益」の大原則から、本来は100%の確証が無ければ有罪判決は出しちゃダメ。
コレは死刑に限った話じゃないし、冤罪の可能性が指摘されてる事件でも再審のハードルが高すぎるのも問題。
疑念が残る事案に関してはもっと再審すりゃいいし、再審で結果が覆らなくても、それはそれで真相を追求する為の手段なんだからいいじゃん。
冤罪事件とか誤認逮捕とか、明日自分の身に起こる可能性もゼロじゃないってことをもっと考えるべき。
平沢が真犯人なのか冤罪なのかは本人しか分からないが、死刑判決が確定しているのに何十年も執行されないのは司法の怠慢。
暗に「本当は無罪なのでは?」って思いがあるから執行されないままになっていると勘ぐられる。
それなら再審請求に応じて再調査すべきだった。
予行演習は平沢、本番は歯科医で顔はまままあ似ているそうです。平沢の当日のアリバイは、完璧ではないですがそこそこ成立しています。
弁護士の方針として、薬物の専門家でもない平沢が否定し続ければ推定無罪と思いきや死刑判決になったので、今更共犯とは言い出せず冤罪主張を貫くしかなかったのです。
歯科医の動機は、金には困ってなかってでしょうから「人を殺してみたかった」という奴でしょうね。戦後すぐなら尚更あり得る話です。
GHQ・731の陰謀論に広げた方が面白いので、清張が小説化した事もあり支持されてきましたが、そこまでスケールの大きい犯罪ってなかなかないですよね。
奪われた金額とほぼ同額の大金を持っていた平沢はその出所や、事件当日のアリバイを裁判の場でも最後まで自供しなかった。毒物に関しても番組では特殊な青酸化合物だとしているが、それは確定していない。あくまでも推測の話。
GHQが横槍を入れた様な演出になっているがこれも完全なフィクション。国内犯罪にGHQが口出すする事は無い。731部隊捜査が急に平沢犯行説に変わったのは平沢が真犯人だとする多くの物証があったから。平塚八兵衛刑事の「刑事一代」はこの事件の一次資料としては一級品で陰謀がなかった事がよくわかる。
無罪の人を死刑にするなんて、歴代の法務大臣もできなかった。
しかし司法の体面を守るために国の誤りを認めることをしなかった。
そして平沢さんが寿命がきて亡くなるのを待ち続けた。
しかしこれは死刑執行するのと同じくらい残酷な仕打ち。
まったく罪過のない人の一生を台無しにしてしまったのだから。
そんな物を一介の画家の平沢が入手できるはずがない。松本清張は真犯人は731部隊関係者説を主張したが731や登戸など陸軍の特殊部隊関係者が真犯人の線が濃厚だし警察も特定はしたがGHQの圧力で潰されたのだろうと推測する。占領された敗戦国の支配構造は現代もさほど変わってはいない。
平沢貞道氏にとって幾つかの不幸が重なったようです。
先ず、自白偏重主義の旧刑事訴訟法の下で裁かれたこと。
次に、自己の保身や利益に関係なく嘘をつくというコルサコフ氏病を狂犬病の予防注射の副反応として患っていたこと(この病が原因で自分に不利なことも自白してしまう)。
更に、実際に犯行に使われた「松井蔚(まもる)名刺」を紛失(財布に入れていて財布ごと掏られたと警察に被害届は出していたが)していたこと、松井博士が几帳面な性格で、いつ、どこで、誰と名刺交換をしたのか克明に記録していたこと。
小切手詐欺の余罪が判明したこと。
GHQから旧陸軍731部隊関係者への捜査に横槍が入ったこと。
このうちどれか一つでも重ならなければ余生を死刑囚として獄中で過ごし獄中死することもなく、テンペラ画の発展に貢献されたことと思います。
世間でよく見かける平沢貞通の写真は逮捕前か、逮捕直後に連行、はたまた公判中の写真(当時はまだメディアの撮影が許可されてた)ぐらいのものだったので。
あとは死去のあと、支援者と親族があえてご遺体メディアに公開したことがあり、それが写真週刊誌に載ったことがあったが、その姿はさながら仙人のような風貌になってたのを覚えてる。
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