郊外の道を流していると結構な頻度で目にする、警告色で染め抜かれた聖書の言葉たち。この「キリスト看板」は誰がどんな理由で、どうやって貼っているのか? その一団に同行して、看板設置の瞬間を見届けた。(北林慎也)
「神の御言葉」を世に伝える
意識しながらちょっと田舎道を行くと、至るところで出くわすキリスト看板。
これらを貼り続けているのが、宮城県丸森町に本部がある「聖書配布協力会」だ。
集団生活するコアメンバーを中心に、「神の御言葉」を世に伝える「伝道活動」を続ける。
その活動は大きく分けて四つ。聖書を要約した冊子のポスティングと小中学校前での配布、プラカードや拡声器による街宣、そして聖書から引用した言葉の看板の設置だ。
キリスト看板は、この産物として各地で貼られ続けている。
活動は都道府県単位。20人ほどの活動隊がキャンピングカーに分乗し、何カ月もかけて一つの都道府県内を集中して回る。
10月初旬、青森での活動に同行取材した。
2人1組の「看板部隊」
キャンピングカーで寝食を共にする20人ほどの活動隊は役割分担が決まっていて、早朝からチームに分かれてそれぞれの活動に入る。この日、活動隊は五所川原市内の河川敷にキャンプを張っていた。
キリスト看板を貼って回る「看板部隊」のチームは2人1組。朝岡龍さん(31)と田中勇さん(81)が今のメンバーだ。
朝岡さんの運転するワゴン車に看板を積み込んで、午前9時過ぎに河川敷を出発した。
五所川原市内の往還を走りながら、通り沿いの設置に適した場所を探す。
助手席の田中さんとあうんで見当を付けると、その先の路肩に車を止めて任務が始まる。
朝岡さんが車を降り、後方のお目当ての場所に向かう。その間、田中さんは前方でめぼしい場所を探す。それが2人の役割分担だ。
看板部隊が乗り込む日産キャラバンは、目立たない無地の白色。伸縮はしごをルーフに積み、外装工事の業者のように町の風景に溶け込む。
昨春に中古で買った、朝岡さんお気に入りの相棒だ。
以前の車は、聖書の言葉がボディーに大書された「街宣仕様」だったが、やはり目立ちすぎてやりにくかったという。
走行距離6万8千キロで買ったが、すでに10万キロを超えている。
唯一にして最大の難関
看板の掲示に適した建物や塀を見つけると、所有者に声をかけ、設置許可をもらう。
この交渉こそが、ほぼ唯一にして最大の難関だ。無断で貼ることはしない。
この日の最初のターゲットは、貸金業者「マルフク」の看板が貼ってある古びた小屋。
廃業後も各地に残るこの赤と白の看板は、目につきやすく宣伝効果のある場所に貼られていることが多く、設置の目安になるという。
結果的にキリスト看板は、このマルフク看板と一緒に目にすることが多いというわけだ。
朝岡さんが小屋の奥にある母屋のインターホンを鳴らす。
「看板を貼って回ってる者なんですけども。あそこの小屋にマルフクっていう看板があるんですが、その横にですね、聖書の言葉が書かれたキリストの看板なんですが……」
「ああ、いいです。そういうのは」
応対した女性が朝岡さんの口上をさえぎる。
「はい、分かりました。失礼します」
朝岡さんは食い下がらず、きっぱりと立ち去った。
断られるのには慣れている。地方によっては訛りが強くて交渉に難渋することもあるが、「ダメ」というニュアンスだけはすぐに分かるという。
前を歩く田中さんも、同じく断られたようだ。先の歩道で待つ田中さんを拾って先を急ぐ。
田中さんは学生時代に伝道活動に入り、半生を捧げた。「福音はそれだけの価値があるもの」と確信している。
立ちっぱなしで負担が大きい冊子配布を避けて看板部隊に専念しながら、体の続く限りは伝道活動を続けるつもりだ。
朝岡さんは「あと2~3年は大丈夫」と笑う。心を許せる頼もしい先達だ。
貼り替えの一部始終
またしばらく走ると道沿いのブロック塀に、めくれて剥がれかかっているキリスト看板を見つけた。30~40年ほど前に貼られたもののようだ。
板が上からめくれて折れ曲がって、「キリストの血は罪を清める 聖書」という文字が隠れてしまっている。
既設看板のメンテナンス、つまり老朽化した看板の貼り替えも重要な仕事だ。
家主の許可をもらって、さっそく貼り替え作業に取り掛かる。
新しい看板を取り出すため、朝岡さんがキャラバンのリアゲートを開けた。荷室に据え付けられた道具箱と看板の収納箱は、工務店と見まごう本格仕様だ。
道具箱には、ドリルなどの用具が整然と並ぶ。
収納箱の引き出しを開けると、トタン製の新品がサイズ別に収まる。回収した古い看板を収納する専用スペースまである。
引き出しはそのまま、ボンド塗布など下ごしらえの作業台になる。
朝岡さん自らカスタムした、まさに看板貼りの実務に特化したプロの仕事場だ。
剥がす看板と同じ大きさの新しい看板をいくつか見繕い、どれがいいか家主に選んでもらう。
ヨハネの福音書3章16節からの引用「私を信じる者は永遠の命を持つ イエス・キリスト」に決まった。
バールを手にした田中さんが、古い看板を慣れた手付きで剥がす。
当時の看板は、昔ながらのコンクリートボンドで貼られていて剥がれやすい。
朝岡さんが新しい看板を、耐久性に優れたシリコンボンドで貼り付ける。
四隅にインパクトドリルで釘ネジを打ち込み、ネジ頭が目立たないようにペン型塗料で黒く塗りつぶす。
最後に、風雨に対する耐久性を高めるコーティングとして、全面にアクリルスプレーを吹き付けて貼り替え完了だ。
作業は手慣れたもので、わずか数分で終わる。
足繁く通うことも
「既設の古い看板を貼り替えたい」と交渉に行くとけっこう多いのが、家主に断られた上で「もう剥がして帰ってほしい」と言われるパターン。
これを引き受けているときりがないため、一律に「剥がすだけというのはお断りしてます。ご自身で剥がす分には構いません」と答えている。
貼り替えたい先で家主が不在であれば、勝手に貼り替えはしない。あまりに汚れがひどい場合は、さっと磨いて立ち去ることもあるという。
ルートは住宅地図を広げて見当を付けるが、真っすぐで広い道路は避ける。こういったエリアは区画整理が進んでいて、民家や商店の密集度が低いことが多いからだ。
また、交通量の多い幹線道路はもちろん、渋滞の迂回路となる県道や広域農道も狙い目だという。ゆっくり走る車中から見てもらいやすい。
いまや地図を一瞥しただけで良さげなルートが分かるという朝岡さんだが、「まだまだペーペーですよ(笑い)」と謙遜を忘れない。
朝岡さんは23歳で洗礼を受けた。
一家で信仰していた新興宗教から転向すると、それまでの不信心を埋め合わせるように伝道活動にいそしむ。
いつの日か「家族にも福音を届ける」のが夢だ。
良さげな場所を見つけては、家主を訪ねて交渉する。看板部隊の活動はこの繰り返しだ。
この日は土曜日で留守の家は少なかったが、平日だと不在も多い。
これは、という絶好の場所には在宅時間を狙って出直し、足繁く通うこともあるという。
宣伝効果や交渉の難易度から結果的に、古い家の庭先の離れや小屋、ブロック塀が設置先の定番となる。
とりわけ、母屋や玄関から遠くにあるほうが「我が家の信条やメッセージと思われる」といった家主の懸念も小さくなるせいか、承諾率は高いという。
参照元:https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191118-00000004-withnews-soci&p=1
ネットの声
その後仙台を旅した時、聖書の言葉をたくさん車体に書いたワゴン車が「キリストの血は〜」とか何とか大音量で流しながら街を走ってるのを見た。団体の本部が宮城県にあると聞いて納得した。
インパクトは確かに残るが、それ以上にあのデザインによる怖さの方が大きい。果たして伝道には役だっているのか?
子供からすると、知らない人が校門前で待ち伏せして何かを配る様子は少し怖かった。キリストの絵とかも怖かったし…
先生方もやめるよう注意してくれた。次の日は校門前にはいなかったけど、通学路にいて私たちはやっぱり怖かったから、走って逃げたんだよね。そしたら追いかけてきて、腕を捕まえられて、無理やり冊子を渡された。
子供を追いかけ回してまでやるなんて本当に怖いと思ったし、子供ながらに腹が立った。
人がなにを信じようといいとは思うけど自分は無いなと思う。
看板を1枚2枚でなくめっちゃ貼ってる家もありますね。
あの看板を見て入信してくる人は居ないと思いますが、看板を貼る彼らにとっては善行なんでしょうね。
色んな生き方があるんだな。
人それぞれの考えがあるから。
でもこういう看板やら駅前演説とかで勧誘するのは違う。
素晴らしいから広めたいとしてもそこまでする必要はない。
押し付ける人もいるがそれは宗教ではない。
言葉の意味がわからないし、ただ聖書のイメージを悪くしている
本当に意味を理解して、伝えたいと思っている人たちの仕事には見えない
何でイエスが生前に弟子と歩いて回ったのか理解してんの?
論理的に教えるためでしょ?
死後さばきにあう。
悔い改めよ。
…これが土塀に張られて怖い印象が強かった。
この周りには、金鳥蚊取り線香、アース殺虫スプレー、ボンカレー、カンコー学生服、ダイセン家具、マルマル火災などと合わせて田舎の風景だった。
今でも新たに張っているとは…。
何を原資にしているのだろうか?
子供の頃怖かったのは、出光の赤い横顔看板、日石の一つ目看板、錆びたヨコハマタイヤの顔看板だった。
怖かった看板の話し。
宗教が悪いとは言わない。宗教は心が病んだ人たちがすがるために生まれたものだと思うけど、結局は宗教による争いや戦争がこれまで何度も繰り返され、それによって多くの人々が傷つき殺され苦しんできた
数ある宗教の中にも色々な素晴らしい教えはあると思うが全てが正しいとは限らない。一つに入信しそれだけに固執してしまうのではなく、もっと広い視野と心で自分で判断する力を持ちましょう
有料の野立て看板をもっとポップに作って、きちんと近くの教会でも示したら、印象は変わると思うけどね。
また、下校時校門の前で冊子を配られるというのも何度か体験しました。
以前は人が住んでいたのであろうが現在は廃墟となっている民家や納屋に貼ってあるあの看板を見ると、何とも不気味というか不安な気持ちになります。
実被害はないとしてもそれが貼ってあるだけで気分が盛り下がる事を貼る側は理解していないと、この記事を見てわかりました。
過疎が進む町にあの看板。
みなさんがもしそういう地域に住むことになったとしたら、結構嫌だと思いますよ?
あの看板を見ると本当に憂鬱な気分になります。
貼ってらっしゃる方々との相互理解は不可能だと思いましたが、伝えたいことがあるのであれば看板ではなく別の方法を探るべきですし、勧誘自体がその宗教へのイメージを回復不能なほど悪くします。
私は看板を貼る宗教を受け入れられません。
この世には、天地万物を創造された神を信じる人と、神はいない教の信者、以上2種類の方がいるかと思います。後者の方々は、人間は猿から進化したのだと主張する傾向があります。目の構造上、視神経の都合上、神が見えないだけかもしれないのに、神いないと宣言しています。果たしてそうか、キリスト看板を見ながら一考するのも良い機会かもしれません。
ただ、この看板を掲げたり、スピーカーで聖書の話をすることで、不快感になられたり、嫌悪感を持たれる方がおられる訳ですから、知恵を出し合って、従来のやり方に拘らずに、臨機応変に対応されても良いのではないでしょうか。
『はじめに神が天と地を創造された。』
「クリスマスは教会でお祈りをしましょう」とかね。
信じる人たちだけで信仰しててください。
休日に変な冊子を持って個別訪問するとか正直迷惑です。
開拓段階でもあるまいし、既に世界中に沢山信者のいる宗教なのだから布教は教えを請う相手に行うだけで十分なのではないでしょうか。
聖書の言葉も知ろうという意思のない人にまで嫌でも目に入るような押しつけがましさは…三大宗教としては少し余裕がなさすぎる。
もちろんこれまで縁のなかった人が聖書を知り救われるというケースもあるのでしょうが、個人的には普通に暮らしていて聖書に触れる機会がないのなら、その人の人生において聖書は必要なものではなかったってことなのではないかと思います。
家族がキリスト教とか、学校がミッション系とか、近所に教会があったとか、そういうきっかけでやってくる人たちを迎え入れるだけではダメなのでしょうか?
許可をとって看板を設置しているのだから、全然良いと思うが、他の方の指摘の通り、色・フォントなどが恐怖をあおる。もっと優しいメッセージにみえるように工夫すれば良いのじゃないかな。
それは記事にあるように看板の色が黒と黄色の目立つ警告色である点や
短い文章で内容を伝えるためにメッセージそのものが強い語調になりがちな点
見通しの悪い場所がよく設置場所に選ばれている点などが(そういう所の方が許可して貰い易いのか)関係していると思います。
伝道行為そのものに悪意を感じている訳ではないのですが
個人的にこの看板による伝道方法に良いイメージを受けた事がないのは確かです。
熱心に布教する信徒ほど自分のコトを棚に上げ、他人を変えようとばかりするから嫌われるし、教団もそこには触れたがらない。
生徒から報告受けた先生が追っ払いに行ってた。
この手の看板は幼少期の実家の近くにたくさんあって怖かったが、いまは見かけなくなった。古い小屋がなくなったからだ。
当時あまり生活状況の良くない友達がいて、遊びに行ったらその子の親と一緒に聖書の紙芝居を見せる集まりにつきあわされたことがある。そのことを親に告げたら怪訝な顔をしていた。残念ながらその友達は、中学で空き巣をやらかして補導され、付き合いが途絶えた。暗い記憶だ。
とはいえ、信仰を持つことで救いになることはあるだろうと思う。
Web広告では宗教関連は強く制限されていて、そのうち布教の看板を見る機会はほとんど途絶えてしまうだろう。宗教への関心の低い日本人であっても、よく見ればあちこちに信仰は存在する。人間同士の直接の情報交換が希薄になる中で、今後宗教はどのような形をとっていくのだろうか。
ありがたいのかもしれないが、人に勧めるもんではない。本人が選択するものだ。とくに意思のハッキリしない子供を巻き込むような団体はもはやただの危険分子である。
宗教は自分が心で信じるものです。
でもまぁ初詣で賑わう寺や神社の参道でやるのはどうかと思うけどね。
教会の入口で「アラー万歳」って大声で言っているのと同じなことしているわけで、それをバチカンなんかでやったら捕まるじゃ済まないよね。
何信じていても良いけど、自分がやられて嫌な事を宗教の名の下なら他人にやっても許されるとか思っているようなのは、そもそも人としてどうかと思う。
現地に赴いたフリー記者が声をかけたのでしょう。
山間部が戦後の開拓者たちが入植し、開拓者は実家を継がなくていいから、改宗しやすいこともあったのでしょうか。
併設された私立小学校は孤児が通っています。
宗教法人として孤児院がある理由は、信者が増えること、伝道者が増えることだと思います。
仏教でもやってますから、別にいいですが。
この系列の幼稚園が仙台市北部にあり、お受験で入らなければいけないほど人気と聞いて、驚きました。
本人達は意義深い行動と思ってやっているんだろうけど、外から見る限りキリストの教えを守っても、ああなるだけで幸せにはなれないんだなというふうにしか捉えられないよね。
今生が修行の場だとしても、ああいうのにはなりたくないよ。
郊外の県道沿いの原野に小屋があり、車が数台集まって何人かで作業をしていた。
聖書配布協会で検索すると、これまで沖縄だけ空白地帯だったのだが今年から活動が始まったとあった。
本土から布教に来ている人たちなのね。
記事を読むと、折り目正しく一般住民には無害のようにも見えるが、こちらでは街宣車でのスピーチも看板の文言も終末思想を訴えるようなものばかりで普通のプロテスタントとはとても思えない。
最近急激に増えてて気持ち悪い
実は凄く無駄な事に大事な労力・時間を費やしてるかも知れない。
個人的にはネガティブキャンペーンでしかないと思っている。
布教したいなら他にやりかた考えた方が良い。
キャンプで各地を回るのは楽しそうだが、お金はどうしてるのだろう。
でもね、このキリスト教の文言は自ら垣根を作ってるようにしか見えない。
熱心さが空回りしてるというか、キリスト教を信じてる人は一体何を考えてるんだろう?と分かりたくもないけどひたすら不気味に思ってしまう。
でも、信者でなければ意味が逆にとられかねない箇所が多い気がします。聖句はどのように吟味しているのでしょうか?
新興宗教か?と思えるような雰囲気が漂っているように感じる方は多いのではないでしょうか。
聖書をもらって帰ったら、親は怒るでもなく、「聖書は面白いからよく読みなさい」と言った。それで小学生ながらに聖書を読んだ。
確かに結構面白くて、いろんな寓話のモチーフが感じられた。
いまではしっかり家業を継いで、坊さんやってます。
今は成人し最低限キリスト教について理解してるつもりですが、この看板では中々いいなと思う人はいないと思います。
全てを許し庇護の下、魂を救う。
家族、隣人と共に正しく行き、お互いを助け合い、見返りを求めない。
人生を見つめ治し、新たな価値観に感じ入る。
今の日本は絶対的に慈悲の心を失っている。
許すことを忘れている。
明日を忘れている。
未来を。
本来なら現世は修行、命あるものは強い反面、誘惑に弱い。
だから命には期間がある。
生きることは厳しく辛苦で、誰の道標もない。
だからこそ自我に目覚め、輝きと失敗を繰り返し学んでゆく。
魂の鍛錬、研磨、浄化の為に。
でも今の日本人には無理だろう。
やはりキリスト的な救世主が必要なほど、暗く冷たく頑固だ。
恥じることではない。
どの国も繰り返して来たことだ。
一度救われて、また歩き出せば良いだけだ。
逆に言えば絶対的存在による魂の救済なしに、国は成り立たない。
共産国のように。
ゆえに流し見る程度の知識は、無い事もない。
どちらかというと、東洋思想的な方に傾いているかもしれない。
文芸的な読み物としての旧約は、掻い摘んで読んでいる。新約は、どうやら性に合わない。
看板には、あまり心地よさは感じたことがない。
心酔している人たちには、申し訳ないけれど。
でも、まあ、そういう押し付けで世界を席巻するに至った訳だろうから、無駄な事ではなかったのだろうとも思う。
しかしながら、他を廃する、否定する、呑み込む、というようなあたりの営利も絡んだ布教活動には、一個も共感しない。
今、子供がキリスト教系の学校に通っているので、近所の教会に出向くこともありますが、クリスチャンでない我が家に信仰を強制されることは一切ありません。いつもフレンドリーに接してくださいます。
街頭で無理やり勧誘したり、家に訪問してきたりするのは「エホバの証人」みたいな集団であり、すべてのクリスチャンがそんな伝道を行っているのではないことも理解してあげてほしいと思います。
本当に広めたいなら都会の広告看板とかに出せばいいのに。なんか毎月のノルマを達成するために貼りやすいとこばっかに行ってそうと思えてしまう。あと景観的にやめてほしい。
どんな看板でもセンスが必要だと思うし、これは逆効果だと思いますが、どうなんでしょう?活動してる人たちはそう思わないのかな?
せめて、明るい色にしては?
結局宗教って金集めだよね。自分が納得したなら入信すればいいけどそれを家族に勧めたり友達に勧めたり通りすがる人達にパンフレットやら配ってどうですか?って活動するのは変だと思う。そういう事しだすと自然と周りは距離取っていくでしょう、実際職場などにそういう人がいるとめんどくさい事に巻き込まれやすいですからね。私はそういう類いの人種はどんなに優しくてイイ人だろうと全て関係を切ります、価値観を押しつけてくる人は嫌いですから。
聖書の言葉を一部だけ切り取ると誤解される可能性があります。特に、さばきとか死という言葉は誤解されやすいと思います。
『キリストは神の御子』クリスチャンにとっては当たり前の事なんですけど、信仰がない人にひとことでは説明出来ません。
かなりインパクトがある看板だけど、恐怖心や警戒心を与え、むしろ誤解されるからやめてほしいです。
この人たちは、布教そのものが目的ではないだろう。今の時代看板よりSNS使ったほうがいいことくらい分かっているはずだ。
看板の効果が薄いことも分かっているだろう。
しかし、布教活動に携わっていること自体が、満足に繋がっているのだろう。もしかして充実しているのかもしれない。
今の世の中、充実するって、なかなかないですよね。宗教云々とは別の話なのかもしれないですね。
また旅行に行こうとも思わない。
完全に逆効果だと思います。
自分の住む地域では目撃していないので一応安心しています。
オウム真理教のテロ事件があってから、宗教というもの自体が恐ろしいものという認識しかできなくなってしまった。
信仰は否定しませんが布教されると拒絶反応が出ます。
信じる人だけ救われて下さい。
宗教は自由だし、もっと胡散臭くない感じでやった方が良いと思うけど。
信仰そのものは無害だからいいとしても、家に来て冊子を置いていく人をどうにかしてほしい。
もしウチに貼るならぜひ広告料をいただきたい。
が人の心の中に純粋にあった時代は通用したかもしれませんが現代においてはむしろ逆効果に感じる。単純に怖い。
法を上げようと一生懸命動きながら一生懸命下げていると思います。
これを引き受けているときりがないため、一律に「剥がすだけというのはお断りしてます。ご自身で剥がす分には構いません」と答えている。
えらい自分勝手だな。
貼る時はお願いして剥す時は嫌って。
人様の家にあったけど、入信してる人なのかは疑問
聖書配布ってなまーに家に来るけど、「ご苦労様です」としか思っていない。あー、親の同級生が入信してて家へ来た。
「まさかこの子が!?」だって知り合いであろうとなかろうと、信じるかは個人であっておすすめするものではないよね
配布されたパンフレットは玄関のシーサーの口に挟んである
多分彼らにも次はどうして欲しいとかないんだろうな。
僕はこの手の看板を見た事がなく初めて知ったんだけど、たまに行く街の駅近くの広場の端に、チラシみたいなのが貼ってあるのは見た事がある。
僕はカトリックだけど「神が云々…」というチラシを見たら、何か怖い。皆さんが言ってるのと同じで。
だから、こういう事をしてる人たちは、キリストをだしにしたカルトじゃないかと思ってる。
記事の人はどうなのか知らないけど。
災害の多い国なので、民衆の希望や支えになってきた。
悪魔とかオカルト的な宗教は、恐怖映画や娯楽ではアリかも知れないが、日本人には受け入れられないと思う。
アメリカ大統領も就任時聖書に手を置いて神に誓っているのをメディアでも見ているのでそんなに恐いものでも無いのがわかりそうですが、世の中に興味のない知らないものは恐いと思う人はいるのですね。
一方的な主張を貼りまくるより世の役に立つ事で思想を広めるやり方の方がいいと思いますね。
ちょっと不気味で意味がわからない看板を、娘はまたあったよ〜!と宝探しをしているように見つけては、なんだかんだ喜んでいます。
私はキリスト教ではないけれど、信じるものがあるのは自由だし、見ても特に嫌な気はしません。
逆に書いていることの意味不明さやおどろおどろしさが面白いと感じてますよ。
あのような看板に時間とお金をかけるならボランティア活動通じて布教した方が自然で受け入れやすいと思います。
駅前で、聖書のパンフレットをもちただ微笑んでたっているのは、この団体の方ですか?
無料で英語を教えますといって勧誘している外国人団体は?全部同じに見えます。
自分も看板を不思議に思っていたので真相が知れてスッキリした!
長崎県民より。
しかし、聖書配布協力会ってのがあって、しかもそんな体制で大勢の人間が細目に活動してるなんて全然知らなかった。そこがストイックではあるけど、ちょっと怖いかな。別に悪い事してる訳じゃないんだけど。
間違って看板に「777」って書いたりしない様にね。(そんな訳ないか)
それでも、不気味である事には変わりないが。
素性に関しては初めて知りましたが、七夕祭りの会場にゴリ押しで、伝道するのはやめて欲しい。
まぁそう言う家だから家主は許可するんだろうけどね。
自分の場合は古いトタンの家に看板貼ってるの見ると、気味が悪いだけで良い印象な持たなかったな。
古くて汚くて潰れそうな家だと、なんか反対に不幸で貧乏になりそうって思ってた。
世の中の動きや流れはしっかり意識していかないと敬遠されるばかりだと思うけどね
あの看板にはへんな怖さしか感じないです
設置交渉の際にその旨を伝えているなら問題ないとはおもうのですが、その辺りはどうなのでしょう。
看板よりもYouTubeをたかった方が良いのでは?
記事の内容を見るとどうやら無断や強制的では無いようなので別に構わないと思う。
しかし、全国行脚して看板貼ったり布教活動したりと活動費はどうなってるんだろ?
記事の内容だと働きながらって感じでも無さそうだし、どこが活動費を出してるのかが気になりますね。
活動するにも車や看板の材料費も必要だろうし食事も摂らなきゃいきていけないだろうし。
なんか給料的なのが出るのですか?それとも本業があって、布教活動は空いた時間にやってるんでしょうか
マルモリ地区は確かキリスト教のコミュニティがあるはずです
私は聖書の看板を絶対に批判しませんが、ネットの方が早いかも?
あと看板のデザインを色んなパターンで考えた方がいいかもしれませんね
もっとイメージのいい看板も作るなどです
黒に黄色で書体だとインパクトが強すぎてドン引きする人もいますからね
神とかに祈りを捧げ、向き合っていればいいだけなのでは?
今見ても不気味で普通に怖い
キリスト教徒を増やしたいのであれば逆効果なのでは?
想像ですが狙いとしては人生に疲れ、途方にくれた人が道を歩いててふと見上げた先にあの看板が…
そしてキリスト教へ…
ならんやろ
住民を脅す様な文面には、違和感も感じます。
どう考えても、千年前の人の話と、現在の哲学、比較にならんでしょ。
彼等は、大勢の中の一人で居られる所に、魅力を感じてるんでしょうね
悪い事も出来なければ、良い事もそこそこみたいな。
お墓にも、この手の文章が書かれたboxが。
公衆電話の4倍ほどの建物。
どうやら、キリスト信者のお墓なようです。
決まりでは、建物はダメらしそうで、非難も。
20年程建てられてましたが、今年撤去されてました。
新興は自由、どうぞ身内だけで。
他人を巻き込んだり、掲示物で勧誘・脅ししたりせずに、真摯に。
ねッ、学会さん。
そのことがわかる良記事でした。
効果がどうかなどは、その団体が判断すれば良いこと。
自分が信じる道をまっすぐに生きている2人の信者の様子に、とても好感が持てました。
キリスト教系のだとはわかってたけど、これだったんだね。
貼ってある家が信者さんの家だと思ってたけど違うんだ。
ただ、あの独特な不気味さに悪寒がして目が覚めた(万引きやめた)的な人もいました。感性の違いは多少なりあるのやも
本当にイエスに信仰を持って欲しいならイエスと同じ方法で布教すべきだと思う
管理人の率直な感想
あらかじめ断っておきますが、僕はキリスト教徒ではありませんし、キリスト教を否定するものでもありません。
はい。この看板。
目にしたことのある人は多いでしょう。
「この看板のある風景と共に育った」という人も多いはず。
西日本には比較的少ないんですかね。
東日本の郊外に行けばすぐに見つかる看板です。
もちろん僕も小さい頃から何度もこの看板を目にしてきましたが、小さい頃は特に何も思いませんでした。
大人になってから見ると、何だかいろんな疑問が生じる。
まさに今回の記事の見出し通り「誰が貼ってるんだ」「どうやって貼ってるんだ」ですとか、「デザインはどうにかならないのか?」とか。
書いている内容は、分かるような分からないような・・・ふ~んって感じなのですが、看板のデザインはどうにかならないんでしょうか。
正直、ちょっと怖いですよ。
もう少しポップな感じで、カラフルに出来ないものでしょうか。
この写真の看板も、色としては黒と白と黄色じゃないですか。
色の組み合わせが悪い!
布教活動としては、勧誘に来られるより、こういった形で押し売りせず、目に入ったら見てくださいくらいのメッセージがいいと思います。
それと「気にはなっていたけど調べるほどじゃなかった」とのコメント。
まさにそれなんです!
それこそがこのサイトのあるべき姿!
・・・というか調べてくれなかったら誰も来てくれないんですけどね。
まあそれはそれでいいでしょう。
コメント