タレントのryuchellさんは、3歳になる息子に、黒人差別を題材にした映画の登場人物の名前をつけました。人種差別や偏見について考えてほしいとの願いからだそうです。そう考えるようになった理由を聞きました。
ぼくの3歳になる息子の名前の由来は、「ヘアスプレー」というアメリカのミュージカル映画です。
映画の舞台は、黒人への差別が激しかった1962年の米ボルティモア。ダンスが大好きな白人のヒロインが、テレビのダンス番組での黒人差別に抗議し、黒人の友人たちと一緒に踊ることができる番組を作る物語です。息子が大人になってこの映画を見たとき、人種差別や偏見について考えてほしいと思って名付けました。
子どものころから差別や偏見について考えてほしいというのは、ぼくの経験とも関係があります。
幼少期、お姉ちゃんが3人いたこともあって実家にはバービー人形があったのですが、お人形遊びをしていると友だちに「男の子なのに、どうして」「『オカマ』じゃん」と言われました。今では、お人形が好きなだけでセクシュアリティー(性のあり方)を決めつけてからかうのは偏見だとわかりますが、当時はうまく言葉にできませんでした。「ぼくがおかしい」「間違っているのかもしれない」と受け入れるしかありませんでした。
中学生時代は完全に自分を殺して生きていました。ぼくは小学生のときからおしゃれが大好きで、当時はやっていたジャスティン・ビーバーの前髪をまねたり、好きな格好を自由にしたりしていたのですが、中学では上下関係が厳しく、「とにかく目立っちゃいけない」「地味に、空気になろう」と言い聞かせました。全然おしゃれだと思わない格好をしてヤンキーグループとも仲良くし、ディズニーやピーターパンが好きなんてことは絶対言わなかった。中学生の頃って、誰かにひどいことを言われたら、まるで人生が終わったかのように受け取ってしまう。自分を出せないのは本当に苦しかったけど、迷惑をかけたくないからと親にも言えませんでした。
吹っ切れたのは、地元の子がいない高校に入学してからです。個性的な格好をしている生徒がたくさんいて、自分の心をオープンにして発言できるようになりました。ありのままの自分を出すことは気持ちいいと思えたことで、誰よりも濃いメイクをして学校に行くようになりました。ツイッターのフォロワーは高校卒業のときには1万人を超え、県外からも「おしゃれ」とか「応援している」という声が届くようになりました。もし中学のときのように自分を隠したまま生きていたら、上京し、いまのようなお仕事をすることはなかったと思います。
人間ってわからないものに出会うと、型や枠にはめたがります。こういう人たちはきっとこういう考えを持っているとか、どうせこうなんだとか。そう考えた方が簡単で安心できるから。差別や偏見はそんなところから生まれると思います。一緒の考えの人といた方が人間は心地いいから、誰にも注意されないと、差別する人は似たもの同士でくっついていきます。だから差別される側の痛い思いは、差別する側には想像もできないのだと思います。
■理解できなくても認める
今、子どもには、いろんな家族が描かれている絵本を読み聞かせています。たとえばお父さんが2人いる家族とか、シングルマザーの家族とか、いろんな背景の家族を描いた絵本です。ママとパパがいて、子どもがいてということだけが普通ではない、いろんな形があってもいいよね、ということを知ってもらいたいからです。差別や偏見をなくす方法は、互いを知る、関わる、交わることだと思っています。大人になればなるほど頭が固くなるから、早い時期から学ぶことが大事だと思います。
もし、将来子どもが間違って差別や偏見による行動をとってしまったら? 正直チャンスだと思います。なぜそう考えたのか理由を尋ね、知らない部分があるのじゃないかな、とか、勝手に決めつけているのではないかと、しっかり向き合って話をするきっかけになります。ここは当たっているけど、みんながみんなそうなのかな、という問いかけもできます。誤解を恐れずに言えば、心から差別しないためには、差別をしてしまい失敗した経験も必要だと思います。向き合って話すことが大事で、叱ってその場限りの反省の言葉を引き出すだけでは意味はないのではないでしょうか。
今回の取材を受けるにあたって、100年前の「水平社宣言」を初めて読みました。とても大事なことが書いてあり、もっと知られて注目されてもいいのにと思いました。なのに正直、有名ではないなあと。100年たって多様性とか新しい言葉も浸透しているけど、まだ言葉だけで、個々人が生き方を変えるまでには降りてきていないとも感じました。
いまよく使われる多様性は、学べば学ぶほど、難しいと感じます。差別や偏見をなくし、多様性を認めようということも押しつけであり、多様性から離れてしまうと反論されてしまうかもしれないからです。でも、ぼくらは「社会」を生きています。多様性を認めることは、なんでも好き勝手にしたり、言いたい放題言ったりすることではないと思います。ぼくが思う多様性は、お互いの「好き」「大事にしているもの」を認めて尊重していくことです。簡単じゃないけど、「理解できなくても認める」というワードをいつも大事にするように心がけています。
参照元:https://www.asahi.com/articles/ASQ2R01WHQ24PTIL01P.html
信じられない、ダメだということでなく、なぜそう思うのか知りたい、話したいというのはすごいなと思いました。
偏見を持つこと、差別をすること、そういったことを思うこと自体は悪いことではないと思うのです。仕方のないことだし、発想はそれこそ我が子であっても自由。
ただ、それを持って人を傷つけてはいない、ということなんですよね。
正しい知識を与え、話すことが大切。
そしてそれを押し付けてもいけない、ということだと思います。
正しい正しくない、はどの立場にも正しさがあると思います。
偏見や差別の根底にあるものって、恐怖だと思うんですけど、自分はね。人間って、自分と違うもの、いつもと違うものに恐怖を覚えるもので、それは、本能的な自己防衛の反応なんだの思うんです。それを素直に、恐怖なんだな、自分が未知のものに出会ったからなんだな、って言えればいいですが、いかんせん、人は社会の中に生きているから、周りの反応も判断の一つになるし、周りと合わせる事も防衛手段の一つの為、「あいつ、おかしい」とか「気持ち悪い」という否定の言葉に、単純な恐怖が変換されてしまうと思ってます。
それが広がって差別や偏見が起こるのかな、と思ってます。
自分の心をより細かく分析したり、見つめたりする癖を一人一人が付ける事が大事なんじゃないのかな、と。
だから名付けも、自分のやり方と違うだけ、ですよね。
例えば、日本においては刺青をいれている人に反社が多いのは事実であり、そういう人と繋がりを持ってはいけない決まりを親として教えるときに、ファッションとしてタトゥーを入れている人との区別をどうつけるか、私も正直わかりません。
タトゥーや刺青をいれている人を受け入れて危ない目に遭う可能性が高いのだとしたら「そういう人は警戒した方がいい」と伝えることも大事だし、そう教える人が多くなれば彼らは浮いた存在となり、それを差別と感じるかもしれない。
ただ、そのために子供の名前を???と私は思いました。
私もこの方と同じように、ド田舎の学校でピアノが弾けただけでオカマ呼ばわりされた過去があります。
当時は辛い思いもしました。
でも、それと名前に込められた意味というのは、もちろん当人次第だとは思いますが、私ならそんなのどうでも良いかな。
相手がどう思ってるかだし。
理解してほしいという親の気持ちに対して、子供が逆にいじめを受けたら元も子もないし。
どんな名前かは知らないですけど。
周りから見て変な名前じゃない方が重要かと思います。
でも別に偏見もなく、付き合ってくれているんだなぁとしか思わなかった
その後はキャッチボールもしていたし
本人の性格を知っているからかもしれないし、親の育て方の問題かもしれないけれど
職場の男性でも女性っぽい感じの話し方や動作の人がいたけれど、それもその人の個性だと思っていたし、逆にそう言う人がいると場が明るくなるなぁと感じたよ
あくまでも私が感じた限りではね
ただ自分の子供の名前に…っていうのは、子供にとっては重く感じてくることがあるかもね…
特に偏見や差別がなくても中学生くらいで自分を押し殺して生きてる子は結構いるんじゃないかな。自分を出せる子の方が少ないはず。みんなそうやって悩んだり模索しながら自分らしさを見つけていくんじゃないでしょうか。
小さい時は親の話も聞いてくれますが思春期はそれもウザくなります。親の見守る力が大切になりますよ。子育ては理想通りにはいかないものです…
子供の名前にするのは親のエゴや押し付けじゃない?
それを名前にしなきゃ子供は差別について考えないの?
どんな名前でも偏見や差別について話し合えばいいじゃない。
わざわざ由来を話してる時点で自身の考え方を世の中に発信する為に子供にそう名付けた様にしか見えない。
例えば人種差別について考えて欲しいからって、キング牧師の名前を当て字でつけられても、子供は「変な名前つけやがって」としか思わないし、普通の名前にして、差別についてはそう伝えてくれれば済む話だよねって思うよね。
でも自然に身を任すだけじゃなく思考して良くしていけるのは人間ならではなのかな、と思う。
とはいえ、差別に関する考えは比較的新しいものだから、色々としっくりこない部分もあるよな。
それが、いくら崇高で素晴らしい理念であっても。
自分は、親がいわゆるそういう名前だったので、名簿や親の名前を言うときが嫌だった。
子でさえ、そうなのだから、付けられた本人はもっと嫌だったろう。
ハッキリとは言わないけど、少年時代には辛い思いもしたようだ。
まあ、ryuchellの場合は、今の時代では、それほど突飛な名前でもないから、さほど問題にはならないかもだが、国民的とも言える有名ゲームの主人公と同じだから、そっちから付けたのか、と思われかねないよ。
ryuchellは知っていたのかな?
でも子供は子供で成長過程で色々と経験して自分で理解し、考えていく。
それをあらゆる面で補助し、提示して助けて行くのが親の役目だと思うので、こうやってメディアに長々と語るのは大人になれば理解出来るだろうけど子供にとってはちょっとプレッシャーになるのでは?と思うけどなぁ。
悪く言えば押し付け。
ご両親の願いをマスコミにしゃべらなくとも、、と、思ってしまう。
凛空とか鈴駆とかの当て字だと一発で読めないし変換もしづらい
だから他人にしてみれば読みやすく変換しやすければ何でも良い
私はリンクくんの赤の他人なのでそう考えます
親御さんのどんな思いが詰まっているかは各家庭の自由で正直どうでも良いです
しかし、これまで、タブー視して声を潜めていたからだと思う。りゅーちぇるさんの様な人が当たり前になれば、偏見は少なくなると思う。
語弊はあるが、日本人が初めて外国人を見たのと同じ感覚。これからですね。
名前はその人の個性としてあるべき。
よく自分の決意を入れ墨にしちゃう人とか、こういうふうに子供の名前に意味を与える人がいるけどさ。
そんなの入れ墨にしたり名前に付けなきゃいけないものなのか?
親の名前や家族を守る、差別を無くすみたいな入れ墨や名前って…
入れ墨しなきゃ家族守れないんか?名前に映画の名前付けなきゃ差別するんか?
私が子供ならもっと普通の名前にして欲しい。
映画は物心ついたら一緒に見ればいい。家族を大切にしてる姿は親が手本になることが1番ではないんだろうか?
でもヘアスプレーはとてもいい作品だし、重ねてになるけどこの方の考え方は納得だし、もっと発信してほしいと思う
差別問題以外も含め、子供に親の思いを託しすぎると大抵教育に失敗します。
とはいえ、名前に親の想いを入れずに何を入れるんだという話もごもっとも。
であれば、せめて名前には課題ではなく、希望を託した名前が良いと思います。
そういう意味でもリンクって名前は素敵ですけどね。
学校ではまったくしゃべらないため、一人ずつ発言するときとか授業がとまることがよくあって、あいつめんどくさって思ってた。しかも家では普通にしゃべるらしいって聞いて意味がわからなかった。
今ならそういうもんだとわかるけど、周りから理解されにくい病気や障害については本人や保護者の同意なしではオープンにならないから難しいよね。
一般的に親の願いってのは子供にこんな大人に育って欲しいとか子供自身への願いだけど、これって名付けられた子供自身はなんも関係ないよね。
むしろ子供が将来親に自分の名前の由来聞いてこの理由聞かされたら引くわ。なんで俺の名前にする必要あった?ってな。
「太郎」と名付けてもきちんと教育をすればその考え方は伝わるはず。
そもそも固有名詞とは意味を持たないもの。
そこに個性を持たせると本来の固有名詞としての役割を果たせない。
名前からチャレンジしてるなぁと思った。
私にはできない選択。
人種差別考えてほしいって考えで子供に名前をつけれない。
自分の思考のチャレンジで子供がつぶれたら(苛め)と思うと…
できるだけ苛めとかになるきっかけからは少しでも子供を守りたい派です。
自分は名前に少しコンプレックスがあって親を少し恨んでいたから自分の子供には、自分の目線じゃなくて子供自身の目線になったつもりで名付けた
もちろん子供は人生の半分以上を「おじさん」「おばさん」として生きるので赤ちゃんやペットの名前みたいなのも避けたしキラキラ・ワシワネームみたいな流行も避けた
個人の自由なので、親自身の要望を込めても良いだろうけどね
ちょっとおかしいと思う。
批判したら差別、なぜすべて受け入れないといけないのか。
受け入れない事もそれはそれで自由だろ。
逆にそれが差別では?
テレビでの言動は「あれっ」と思うことがあるが、イケメンだし、多様性の時代には良い象徴だと思う。
名前って形で背負わせたがる親ってたまにいるけど
子供には子供の人生がある、ということを理解しているのだろうか。
子供に余計な十字架を背負わせるなって感じだわ。
その名前はずーーーと死ぬまで続くんだぞと。
人種差別を考えるのは当然のことであり、その由来を名前にするのはオカシイだろと。
その願いの押し付けで名前決めたら子供可哀想けどな
親のエゴで子供に色々教育するとあとあと反動来たりするし
子供の考えを尊重してほしいね
ただ・・・
子を持つ親として、その名を子に託せるか?
と聞かれたら、俺には無理でしょうね。
「それとはこれ(名前)とは別」と考えると思う。
子供が自分で決められるもんじゃなし。
親の押しつけじゃない名前って、どんなだ?
「いや、そうは言ってもこんな名付け方はおかしい。普通はさぁ…」と考えてしまうなら、それこそが差別につながる排他的で視野の狭い考えだと思うな。
私は画数と雰囲気だけで名前を決めました。。
例えば優子とかも優しい子になってほしい、ってことなわけだし。
多かれ少なかれ親のエゴ、願いがこもってるのが名前だと思います。
そんなに人間うまくいかない。
自分の子供さんのクラスとか近所に変わった名前の子がいても不信感ないですか?
タレントは良くて一般人はダメみたいな考え。
まさにこの投稿の根幹の偏見でしかない。
日本人だとゲームのキャラクターを想像する人が多いと思います。
というか、小学校で、自分の名前はどういう思いが込められているかって発表する授業があります。
それを子どもの名前に託すのではなく、自分で行動してみては?
名前の音が気に入って、理由を後付けしたのかな?
差別偏見の無い世の中とはどういう世の中なんだ?
マイノリティのためにマジョリティは
どれだけ我慢しなきゃならないのかさっぱり分からん
思いはわかるけど、ジュリエちゃん(ジュリエットが由来)とかかわいそうだった
子の名前は親の物だけじゃない
好き勝手と多様性は違うという事は広まってほしいです。
それでも悩みながらの子育てだと思います。がんばってください。
日本は子供の名前をつけるときに願いを込めてつける文化でしょ。
とかよりいいかな。
ただ子供時代の下り。偏見と言うか子供は素直だから思った事を言っただけな気がする。
男が人形遊びは見ていて気持ち良いかと言われると否だと思う。
勿論良い大人は口にしないし心の中で思うだけ。
その考えを偏見だと決めつけるのはちょっと変じゃね?
口にするしないは置いて置いて無理なものは無理だし気持ち悪いと思うのはどうやってもキモいと思う。
否定されるべきなのは謂れの無い差別、本人には変更出来ないかまたは非常に困難な理由での差別です。
それを何でもかんでも差別として差別を否定するから拡大解釈して”差別”を免罪符に対立構造作り出す人が出てきてしまいました。
その行為が差別になってるのにね。
最近は我慢が悪い事のようにされてますが我慢強いとは褒め言葉だったはずなんですよね。
我慢出来るから他人に優しく出来るのに自分らしさや自分をさらけ出す事を優先させる事も過ぎたらただの迷惑な人なんですがね。
バランスとして安定ではなく不安定な社会になってます。
親の押し付けでキラキラネームをもらい辛い思いをする子どももいる
人種差別について学ばせる事と、名前は別だと思うが、リンクをカタカナにしたのは良かったと思う
漢字の宛て字は本当に可哀想だから
私の周りにはキラキラで本当に辛い思いしている子がいるから、せめて宛て字だけはしないであげて欲しい
タトゥーにしても名前にしても
この方は、自分が前にあり後付けで綺麗事を言ってるように見える
タトゥーもファッションの一部でオシャレと捉えてもいいと思うし好きな映画の登場人物の名前を子供に付けるのも良いと思う
わたしはペット付けますが、、、
あまり綺麗事言うとかえって言い訳に聞こえる
多様性とは、考え方も多様性である事を受け入れてはじめて多様性である
差別を考えて欲しければ自分の範疇でやり方を考えればいい
子供に押し付けるべきではない
子供を自分の所有物のように扱い
管理しようとする勘違いな親が多いから虐待が無くならない
自分の思想を顕示するためであれば、子供がその名前のせいでどんな思いをするかなどお構いなし。この人の発言が何度かニュースなどで取り上げられ、祭り上げられてますが、どれをとっても他人への配慮、論理的思考、常識、何もかもが欠けている。ただただ自分の自己顕示欲を満たしたいだけの愚か者です。
子供の名前に願いを込めることと、子供の名前を自分の思想のために利用することでは、天と地ほどの差があるのです。こういう人間は近い将来、子供を不幸にする形で破綻するでしょう。
誰だって他者より優れていたいし、劣っていることを認めたくない。
成功するものは羨ましいし、落ちぶれる者は惨めに見える。
それら全てを飲み込んで、人類みな聖人たれ、なんて世迷言もいいところ。
あっていいんだよ差別は。あるのが人類の形成する社会という装置において正常だよ。
でも差別して、人を傷つけてはいけない。ただそれだけ。
その本能の否定を強要しているのだから、生きづらさの強要をしてる自覚だけは持って欲しいってくらいでしょうか
差別や偏見をもつ人間もいるだろうが、それこそそういう人間もいるという多様性なんじゃねえかな。
健康にスクスク育って欲しいなんてありふれた名づけでも後から大病患って悩む子供もいるのに、願いでも子供の未来でも無くて、親の思想を押し付けられる重みを全く分かって無いよな
その名前はその子がずっと呼ばれ続けて、名乗り、書くことになる名前なのに、どうしてこの名前を付けたの?って聞かれたら人種差別を考えて欲しかったからなんて理由で子供が納得できるのかな?
自分の主張は自分でしろと思いました
私は韓国嫌いだが、私の子供達がテレビ等を見て、韓国気に食わない等を言った時には。
「まあ大人になりながら、いろんな情報や意見を聞いて考えていけば良い事で、今から決めつけて意思表示をするのは良くない」
と伝えている。
最近は、差別“意識“を持つだけで悪と叩く風潮がうっとおしい。
名前を映画からダイレクトに取らなくても、日本には漢字があって、漢字一文字一文字に意味と願いがあるから、差別を無くす根源が、優や愛なら、それを名前に使うのが日本の良さ。
自分はこういうセンスや日本的知性のない人が嫌い。
好き嫌いは差別や偏見に繋がるけど、それで直接攻撃することはない。
むしろ反発して差別主義者になったりするよ
自分なら子供に重い宿命は背負わせない
太郎とか花子だねw
大袈裟なこと託さなくても親がちゃんとしてれば子にも伝わるだろう
なんかメンドくさいよ
ソースは水泳の国際大会。誰一人黒人選手がいませんん。
黒人と同じ水に浸かりたくないそうです。
日本人からしてみたら言われなければわかりませんが。
まあなくならないでしょうね。
そこらへんが親として何というか浅はかというか薄っぺらいというか、そんな印象を受ける
そう言う人たちをヤンキーと称すのと、女々しい男性をオカマって言うのは同じことだと俺は思うがね。
何が違うの?
ヤンキーグループ。ギャルグループ。
オタグループ。マジメグループ。
陰キャ。陽キャ。
全て固有名詞。区別や種類分けみたいなもん。
わかりやすく言うと、
白人グループ。
黒人グループ。
黄色人種グループ。みたいな。
差別は『ヤンキーだから◯◯だ』『オタだから◯◯だ』などけなす、又は差をつけた物言いがあった場合が多いでしょう。
差別を履き違えると無意味な争いが起きる。
名前とはそういうもの。
子どもにつけなくても
自分で動けばいいだけ。子供にしたら迷惑かもですね。
名付けられた本人が大人になってから納得できれば良い。
長男だから一郎、みたいな流れよりは想いがある。
読めない当て字つける奴はアホだけど。
子供は親のオモチャじゃねーぞ。
俺は自分の親がこんなんじゃなくて本当に良かったと思う。
自分の名前が差別イカンくん?
面倒なだけ。
アピールしたいんなら自分の名前を改名したらいいに。
自己中だな
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