「空の安全への願いと、弟が眠る山に登り続けた父の思いを受け継いでいきたい」。事故で弟の加藤博幸さんを亡くした小林由美子さん(62)=さいたま市=は紫色のリュックを手にして語った。
リュックは19年前に亡くなった父、留男さんが慰霊登山の際に欠かさず背負っていたものだ。現在は由美子さんが大切に保管する。この世を去った留男さんに代わって毎年、事故発生日に当たる8月12日に家族の誰かが背負いながら御巣鷹の尾根を踏み締めてきた。
博幸さんは当時21歳。都内などで芸能活動をしつつ、友人とショーパブ経営を目指していた。羽田発大阪行きの日航ジャンボ機に乗ったのは、本場のお笑いに触れるためだった。
事故のニュースで搭乗者として博幸さんの名前が出た際は、年齢が違っていたため、「どうか別人であってほしい」と家族みんなが祈った。だが、博幸さんからの連絡は途絶えたまま。「土産を買って帰る」(博幸さん)、「じゃあ、気を付けてね」(由美子さん)。搭乗前の電話でのやりとりが、最後の会話になった。
コントを披露してくれた時のこと、テレビ番組への出演…。人々を笑顔にしようと頑張っていた博幸さんとの思い出は尽きない。「ひろちゃんは夢半ばで悔しかったと思う。年を重ねて時間ができた今だからこそ、もっとたくさん話がしたかった」。普段は気丈に振る舞う由美子さんだが、尾根では自然と涙があふれ出る。
未曽有の航空機事故で息子の将来が奪われた留男さんは、200回を目標に命日以外にも尾根を訪ねた。赤いリュックを購入し、いつしか紫色の2代目を背負った。だが、目標に届かぬうちに体調を崩し、がんを患っていることが判明。2001年10月、家族と共に最後の慰霊登山に臨んだ。
「事故を風化させないために登り続けてほしい。自分の代わりに御巣鷹に持って行って」。残された時間と向き合いながら尾根で足を進める中で、由美子さんに思いを託した留男さんは翌02年6月、69年の人生の幕を閉じた。
託されたリュックは由美子さんの次男、隼也さん(31)=東京都品川区=らが毎年、尾根を訪れて背負う。留男さんの手帳に書き加えてきた回数は昨年で185になった。隼也さんは「今年もリュックを背負い、祖父を『連れて行く』。家族全員で尾根に集まりたい」と力を込める。
由美子さんは博幸さんに会おうとひた向きに歩みを進めた留男さんの面影と、空の安全を願う思いをリュックに重ねる。
「悲惨な事故を決して風化させたくない。これからも父の思いを家族で背負い、弟に会いに行きたい」
参照元:https://www.jomo-news.co.jp/news/gunma/society/316710
日航機墜落事故について【みなさんの声】
あの時の衝撃は今でも忘れられない
後になって聞いた機長と副機長のボイスレコーダーの緊迫したやり取り
最後まで諦めずに必死に機体を立て直そうとしてい会話を覚えています
無念の最期を遂げた全ての犠牲者の為にも二度と同じような航空機事故が起こらないように願いたい
当時はとても衝撃を受けた
「がんばれ、がんばれ」ってまるで愛馬に語りかけるみたいだった。。
落ち着いた、優しい声音だった。誰よりも現実を理解していたはずなのに。
最後まで希望を捨てない頼もしい機長だった。
事故後は悪く言われてしまっていたけど、あの機長だから御巣鷹山まで行けたという記事も読んだことがある。何としても、住宅街への墜落を避けたかったようだと。
犠牲になられた方々のご冥福をお祈りいたします。
そういう報道被害も、二度とあってはならないと思います。
その後7年も経過してこのような大事故につながるとは思いもよりませんでした
彼女が小学生の時の事故だったので、私達は事実を知らなくて
話の流れでこの事故の話題が出た時に急に泣き出したのでびっくりしたのですが
後から後輩と同じ学年の子に事情を聞いて遺族だということを知りました。
彼女は当時母親の実家に引っ越しをしたりと色々大変だったそうです。
毎年、日航機の墜落事故の報道を見ると彼女のことを思い出します。
今は彼女との交流はありませんが元気でいてくれることを願っています。
ただ、時の流れは早いですね。
あれほどの重大事件にも拘らず、関係を壊したくない日本側の忖度により厳しい責任追及はされず終い。
そうして行き場を失った国民の怒りは、本来完全な被害者でしかない機長達へと向かったのでした…
加害者が裁かれない事によって、何とよりもよって被害者が糾弾され始めるという現象は世の中に溢れる特段珍しくもない事件でもよく見られます。(特に不起訴に終わった性犯罪事件など)
すごいことだ
30箇所くらいありますよね。この言葉。
ご遺族のためにも1日も早く事故の真相が明らかになりますように。
救出された4人の方、、、
翌日発見された煙が立ち上る事故現場。
毎日放送されていた捜索状況と、遺族の方々の涙。
毎年思い出します。忘れません。
ニューステロップが流れてからの事、36年
確か群馬から応援に向かう高校生も含まれていましたよね
こんな事になった本当の理由がわからないって辛いだろうな…。
米軍が撃墜したとか、自衛隊が何十人も乗客を殺したとか
自分の本を売りたさに好きかってなことを書いたライターは恥を知るべき。
もともと事故機の修理の仕方に問題があっただけでした
陰謀の話はそういうものが好きな人達が尾ひれをつけすぎてものすごいことになってますが、事実はシンプルです
youtuberの話だけを信じないで下さいね
画面越しで見てても辛かったのに。
当時を知らない人が面白がって言ってるんでしょ。
まだ12歳の小学生だったか…
かわいかったよなー
そのかわいさにつけ込んで当時は芸能界デビューしませんか?
と争奪戦だったような…
しかし慶子ちゃんは断り続けたんだよね
いまは結婚もして、京都で看護師をやっているとか…
まっ噂ですけどね…
家族に向けて遺書を書いた人がいたよな。
遺体の回収と、照合した会場での作業
墜落遺体と言う本に詳しいです
そして家族が眠っているなら会いに行きたいのは当然だろうか。
気分的にはヘリポートとか地下鉄とか作ってあげたりして欲しい気分。
事故の日ばかりでは無く会いたい時に会える様になって欲しい。
当時の担任の先生は、新聞に掲載された乗客者リストに生徒がいないことを祈りながら確認されてたそうです。
事故の原因について諸説ありますが、真相が明らかになってもらいたいです。
確か一人女の子が助かったと記憶していますが、その方が元気に過ごしていることを願っています。
遺族の方にとっては事故現場、一山が霊場及び霊山となるような気持ちだと思います。
いつまでも元気に、現場を訪ねるということが、心の気持ちをほぐしてくれると思います。
女の子は整った顔立ちで、芸能界がスカウトに動いたとか言う報道も見ましたが、神経を疑ったものです。
女の子は、確かお兄さんが飛行機に乗っておらず、二人で親せきに引き取られたのだったの思います。
その中の事故当時14歳だった方は知人の同級生だったそうで。
その後看護師になり、ご結婚されてお子さんもいらっしゃるはずです。
その方の話でいたたまれなかったのが、墜落当初は家族を含む大勢の方が生存していらっしゃったそうで。
だんだん話し声が聞こえなくなっていき、家族からの返事も無くなったのだと。悲し過ぎますね。
遺族は本当の事を知りたいですよね。遺族が生きているうちに決着しますように。
生存者がもっと居たのに悔やまれる。
日本の救助技術が低かったのはあの時代では仕方なかったがアメリカ軍に要請すればと思うのは私だけか?
独身だった私が、今や孫がいる。
あの日から36年、年月を感じます。
安全神話が崩れた瞬間であり、本当に衝撃的な事故でした。今でも思い出すだけで、心が震え涙が出そうになります。
身内の方、そして捜索救助隊の方々は未だに忘れる事ができないでしょう。このような事故は二度と起きて欲しくないです。
あの日、15才だったけどベストテンをみていたら速報テロップがでて無事だといいなと思った事を思い出します。あの日、自分がきていた洋服、1日の行動をあまりの衝撃で事故の事を含め忘れることがありません。
足りないドライアイス
視点の定まらない人々の目
仮安置所になった学校の体育館
忘れられない、忘れない。
本当に圧力隔壁が原因の事故だったのか…事件性のある原因だったのか…沢山の方々が亡くなった事実は変わらないが、尚のこと真相究明為される事を願う。
あの事がトラウマになり、46歳になった今でも飛行機は怖くて乗れません。
それだけ、衝撃的でした。
そして、犠牲者遺族への報道各社の質問攻めの姿など…子供心に何だこの人達?と思ったのも覚えています。
映し出される映像に関しては今は規制も多くなりましたが、遺族にコメント求めるレポーターの不躾さは全く変わらないですよね。
学校のクラスメイトが行きの大阪行きに親の帰省で家族で乗っていたと聞いて、その折り返しが山に落ちたと、もしも逆だったらとショックそうだった。
関係のあるご家族は何十年たっても忘れないし、段々時間が経過すると風化してしまうのは時間の流れとは残酷なんだなと思わせる事柄の一つです。
私の中では大震災と並び人生最大級の大きな出来事になっています。
受験生でありながら徹夜でテレビを見ていた思い出があります。
数々の異説がある事故ですが、亡くなられた乗客、最後まで生還そして被害を最小にしようと努力したクルーの方々、
恐怖の中乗客の為に全力を尽くした客室乗務員の方々、あの状況で生き残ってくれた4人の乗客。
事故の救助に当たった様々な方々。
絶対に忘れてはならない。
しかも、下手な対応したら政治的に利用される所だったという。
元々狙われてたんじゃないかな。いつか重大な事故が発生するようにね。
暑苦しくセミが鳴く朝、ニュースが大騒ぎになっていて宿題も手につかずソワソワしていたのをはっきり覚えています。
それ以来、関連のニュースや記事と触れる機会があれば必ず気にして読む年月を繰り返してきました。
リアルタイム世代の自分にとっては、あれからこんなに年月が
当時の勤務先に血相変えてやって来たのは、もう古稀を迎えようかと言うお歳で元新聞記者のお客さん。
流石に元記者さん。事故直後にも関わらず、『いつ』『どこで』って情報をキチッと押さえて教えて下さいました。
あれから36年か。。。
事故で犠牲になった小林博幸氏と他の519人の無念を思うと心が痛むわ。
原因の徹底究明を願うと共に、犠牲になった520人の追善に、改めて心より合掌。
亡くなった方々が残した家族へのメッセージも恐怖の中どんな想いで書かれたのかと思うと
二度とあってはいけない事で忘れてはいけない事。亡くなられた方々が安らかである様祈ります。
自分と同年だったので二重のショックだった
搭乗客の方々はみな同じだったに違いないが
無念という言葉では言い表せないものがあっただろう
「なぜ彼は死ななくてはならなかったのか」
他人の自分でさえそういう気持ちになる
ましてや家族は一生の傷であるわけでその心の内を推し量ることも憚られる
あれから36年 合掌
ヘリコプターで救出された、当時、小学生の女の子が生かされた命で看護師になる!というコメントを聞き、後、本当に看護師になられたと聞いて感動をしたのを憶えています。
もう50最近い年齢になってはるかと思いますが、このコロナ禍でも尽力されているかと。
また今年も色々な想いが、あの山にまた祈りとなって追悼されるのですね…
時の流れは早いですが時間が遺族の方の傷を癒してくれるわけではないのでしょうね。事故の真相解明が一日でもはやくなされますように祈るばかりです。
いたるところに落とされたんだなと、それが現実だったことにぞっとしました
登山道は整備されていたので何とか登れましたが、当時はこれもなかったから本当に山の中です
現場で作業した人たちはそこに行くまでが大変だったでしょう
それにしても腑に落ちない事故です
真相はいつか明らかにされるのでしょうか
この飛行機は、福岡発羽田行き、折り返し、伊丹行きだったんだけど福岡発羽田行きの便に、バース、掛布、岡田、真弓を含む阪神タイガースレギュラー選手が乗っていてチーム内に大きな動揺が広がったそうだ。
それから各球団は、飛行機異動から新幹線異動に切替、やむなく飛行機を利用する場合は、分散するようにしたんだとか・・・
中学生の時に御巣鷹の事故10年という記事を見て知り、それから図書館で過去の新聞記事を読み、関連書籍も読みました。
一度、御巣鷹山へ行って自分の目で見たいと思っています。
B社と交渉して、圧力隔壁の修理ミスで締めくくってしまった。。。
操縦士はまさに必至で頑張ったのに。
坂本九さんが亡くなった事もありますが、当時は高校野球に凄くハマっていたので東京農大ニ高の竹下さんのお父さんが亡くなった事も(甲子園に出ている高校の選手の身内が、、、と)結構ショックでした。
川上さんのお兄さんと(性別は違いますが)同じ年齢だった事もあって「今両親が突然いっぺんに居なくなり自分が大黒柱にならなきゃいけなくなったら、、、」とお兄さんの今後を考えたりして。
その後の病院での川上さんへの報道陣の執着ぶりはちょっと異様でした。
他に助かった母子のお子様の方、まだ小さかった記憶ですがその子ももう40代にはなっているんですよね。
月日が経つのは早いです。
この時僕は保育園だったけど、「飛行機が落ちる」と言うことを知って衝撃を受け、かなり大きくなるまで飛行機に乗るのが怖かった。
年月が経てば、どれだけ大きな事件や事故も報じ方は小規模になっていき、そうして風化していくのだと思う。だからこそ、この事故に限らず、知ってるより多くの人が後世に伝えていかなければいけない。
当時は考えが至らなかったけれど、真夏の山中。救助へ行った方々、遺族の方々、相当傷を負ったと思う。偶然客として乗り合わせたCAさんが生還し、色々中での様子がわかったことが救い。ただ、会社側が隠している事もたくさんあるのだろう。。。慰謝料もらっても、換えがたい事だと思う。
悲惨な事故は二度と起こってほしくない。
ボーイング社がちゃんと亀裂を補修して塗装してくれていたら。123便が過去に胴体着陸していなかったら。尾翼から少しずつもがれるようにして爆発し、ダッチロールして、アンコントローブルになっていく恐怖を思うと、とても乗りたいとは思わない。
時間の経過が、御霊を安らかにすることなど、あるのかわからないが、夏がくると、子どもの頃に見たニュースの衝撃が繰り返される。合掌。
とても暑い夏の夕方のことでした。
友人からの電話で、声が震え泣きながら電話をしてきました。私は友人が話していることをニュースを見ながら聞いて、すぐに理解できなかったことを覚えています。
友人はお父さんを亡くされたのです。
この事故で残された遺族は当然辛い思いをしました。
また、辛い思いをしたのは遺族だけでなく、航空会社も同じと思います。
だからこそ航空会社はこの事故の辛い経験を、現代へ生かして欲しいという切実な願いだけなのです。
また、事故原因について明確に出来なかったことは仕方ないかもしれません。
事故当時貨物室で何が爆発したのかさえ見ていたわけでは無いので知る由もありません。
ただ、何もせずに出来ないこと(原因究明や隠蔽)を正当化しないで欲しいのです。
それが亡くなった方々への無念払拭と、遺族への誠意では無いでしょうか。
当時大手メディアで報道された圧力隔壁の修理不備も疑惑が残る。
隔壁が破壊されれば、客室が冷却化して遺書など書けないという。
垂直尾翼に自衛隊か米軍の航空標的が激突したのだという説もある。
墜落直後の山には出動できず、翌朝になって山狩りしたため生存者が激減。
真実を究明することが、犠牲者への本当の鎮魂になる。
帰国後、父の実家がある群馬に落ちたと聞いて一家で驚いた記憶があります。
海外の報道は正確ではないと感じたきっかけになりました。
曖昧な記憶ですみません、事故の翌日だったか、何日か経過したか、当時学生の夜更かしでしたので、事故翌朝だった可能性があります。特番状態のNHKニュースで突然流れたテロップ。ここからは曖昧ですが「自衛隊員が銃撃戦で負傷」的な唐突な内容。えっ?墜落事故現場で、なぜ?とかなり面食らった記憶。続報が流れるはず、とそれから暫く画面に張り付きましたが、続報なかったか、見逃したか、そんな記憶です。
殊更に墜落ミステリーと騒ぐ意図はありませんが、NHKでしたので、未だに忘れられないまま、記憶の片隅に残っています。
小学生の私には「とにかく規模の大きい前代未聞の飛行機事故」としかわかりませんでした。
救出された女性を新聞やニュースでみて、子供ながらに助かっても辛い思いがあるだろうと何ともいえない気持ちでした。
親を無くした当時の私ほどの遺族も、もう親の
年齢をこえています。遺族のこれまでと、この先を考えると毎年胸が締め付けられます。
今よりももっと情報が出てこない時代。明らかになればなるほど甚大な被害が。
あの時犠牲になられた方々の元に今の安全がある。でも被害者の方々の恐怖と無念は想像を絶する。
当時、東京ディズニーランドに行くのが私たち子供のころの憧れで、友達家族は夏休みにディズニーランドに行きました。
その帰りの事故でした。
翌日、友達と夏期講習で塾に集まっていて、○○ちゃん、乗ってたらしいで。うそ?ほんまに?っていうみんなでした会話を覚えています。休み明けて始業式で先生からみんなに報告があったとき、その女の子のことが好きだった男の子が号泣してたのを覚えています。
あの戦争でさえ風化してしまっているのだから、この事故が風化しつつあるのも致し方ないことだとは思うが、時間というのは傷を癒してくれる反面、寂しさも募らせる。
真実が何なのかわかりませんが、本当のことがわかる日がきますように。
1番言えることは国は多くの隠蔽を犯していること。そして、事故調査委員会もJTSBもその隠蔽に加担していることです。
520の魂そして、遺族の方たちのためにも調査官たちの正義ある行動を求めます。
月日が経つのは本当に早いのですね
遺族による慰霊登山は大々的にやらなくてもよいのではないでしょうか。
コロナに関係なく、遺族の方も高齢になってくるでしょう。
8月という時期も心身に負担が大きいと思います。
JALに入社した友人がいますが慰霊登山は新入社員の入社後の必須行事、また事故機を前にした安全教育も必ず行われているそうです。
風化などせず、生かされていると思いますよ。
自宅に着きテレビを見て、こんな大事故であったとわかりました。
あの日の夕方のテレビに流れたテロップ。事故現場が二転三転したこと。事故原因も憶測が憶測を呼び、まことしやかなデマが多く流れたこと。
翌朝の事故現場の映像も私の記憶に焼き付いてます。
あのような状況の下でも機長さんがクルーを鼓舞し、最後まで羽田に戻ろうとしたこと。CoパイさんもFEさんも必ず羽田に帰ると信じて、、、
なのに、一部の人は機長さんの「ドーンと行こうや」の言葉が不謹慎だ。と騒ぎ立てたもの覚えてます。
もう36年ですか。叔父が生きていれば、、、、、
こんな悲劇は2度と起きてほしくないです。
あらためて、犠牲となられた方々のご冥福をお祈りすると共に、ご遺族の方々、関係者の皆さんの心が安らぐことをお祈りします。
テレビの速報の「飛行機が消息を絶った」の意味が分からなくて母親に聞いたのを覚えています。
翌朝の現場の状況や、飛行中にすでに垂直尾翼がなかった映像など、報道を見ながら震えていました。
今でも飛行機が怖いのはもう克服できないと思います。
自分は中学一年生だったが、墜落時の夜からテレビで緊急放送、凄いことが起きてると思いながらかじりついていた。翌朝、ラジオ体操から帰ってきて、朝ご飯そっちのけでずっとテレビにくぎ付け。
急降下していく機内で、家族を想い必死に遺書を書いたお父さんや、「頑張れ」と励まし合うパイロットのやりとり、垂直尾翼、ダッチロール、そして奇跡的に助かった数名の方(内、お一人は自分と同年齢の方)、様々な映像や言葉を思い出す。
もうあれから36年か。
夜になり家に有った地図を広げ、中学生の私と勝手に墜落場所を推測したりしました。父は「光が!光が!」と最後まで拘りつつ、結局「墜落場所判ったら教えろ」と言って寝床に入ってしまいましたが。
おかげで私が徹夜と相成りましたが、刻々と入る情報と搭乗者名簿読み上げの数の多さにこの事故の重大さを思い知るきっかけとなりました。
父はかつて強盗にボーナスを奪われ支給日にボーナスが貰えなかったり、単身赴任先で大震災に見舞われたりと何かと奇縁です。
もしかしたら父の見た「光」は本当に123便だったのかもしれないと、光を見た時の父の年齢を越えるとつくづく思います。
この場をお借りして犠牲となられた520名の御霊に哀悼の意を表します。
合掌
原因は機体が尻もちを突き隔壁にヒビが入ったのに完全に直してなかった修理ミスではないのですか。
修理ミスをした責任者とその機体を使い続けた責任者の責任を取らせてないのが問題なのではないのか。
今春、事故機の副操縦士のお姉さんが、開示を求めて裁判を起こしてしています。
一定の範囲まで決めて調査しても、それに追加する形で調査をすると永遠に終わりません。
本来はどこまでか決めてやります…36年前じゃそんなそんな手法は無いからいつまでも引きずって要るのでしょうね。
恐らく、その機体構成していた原子・分子構造まで明らかにしても、遺族は明らかになってない言うでしょうね。
早いですね、神奈川に住んでいますがあの日あの時間(の少し前)日航機らしき物が上空を飛んでいきました。
その後ニュースを見ました。多分あの飛行機だったんじゃないかなぁ・・・・・・今でも思います。
その後私の関係者はいませんが慰霊と言うことで御巣鷹の尾根に行きました。
まぁ、亡くなられた方の氏名やその場所まで示されていて、思うととても凄惨な事だったんだなぁと思いました。
それとともに、製造会社の単なる手違いで・・・と言うことで修理した者達には何も罪に問われていません。
政治判断なんだろうか???今でも憤りを感じます。
御巣鷹の尾根は、ちょっとした小山程度です、里山に行かれるだろう方ならどなたでも登れます。一度お参りに行かれても良いかと・・・・・・(強制ではありません)。
ただただ 呆然としてニュースを見てた記憶があります
そして、その中に坂本九さんの名前ショックでした、北海道にゆかりのある方だったので。
当時、大学3年の夏に地元に帰省してバイトをしていた最中に、突如舞い込んで来た臨時のニュースでした。
犠牲になられた方々は元より、ご遺族やご友人・知人の皆様が安寧でありますように…祈り
8月12日の[日航ジャンボ機墜落事故]今年で、36回目の夏を迎える
青空の中小さく見える飛行機の安全を願わずにはいられない!今日も安全に
誕生日が嬉しい一方たくさんの方の悲しい日であると思うと少し複雑でした。
本当の真相を究明するジャーナリストがいないと、これ以上は無理でしょうね。
ご遺族にも長年親身に対応し慰霊登山準備中の滑落事故だったそうです。
坂本九さんは永遠なり
親戚に遊びに行ったら本家が親戚一同を集めてくれました。
親戚一同で晩御飯食べながら見た夕方のニュースで知りました。
その時の親戚みんなの残念そうな表情をよく覚えてます。
この直前の福岡羽田には平和台で試合を終え翌日から後楽園での読売戦を控えた阪神の選手らを乗せていた
疑えば、事実も嘘になってしまう。誰かが陰謀だと言えば、疑う人も出て当然です。
オリンピックで上を向いて歩こうを流していたけど、何も解決してないのに
フライトレコーダーを聞いていて疑問に思ったのですが、飛行機をコントロールするにあたって、左右のエンジンは生きている訳ですから、左右の出力の調整によって機体をコントロールできなかったのでしょうか?
飛行機を操縦したことがない素人意見ですが、エンジンが2機の船舶では、その方法でコントロールは可能です。
勿論海上と空中では全然条件が違うと思いますが、フライトレコーダーを聞いてる限りでは、そういった操作は行っていない様子でした。完全な素人意見です。すいません。
やはり自衛隊の誤射説が正しいように思えてきた
生き残った人の証言でもあるように比較的早い段階でヘリが来ていたことは事実らしいし、すぐ救助できていればたくさの人の命も助けることができたはず。
というか生き残った人は殺すことに失敗人達という説もあって本当に恐ろしい事件だよ
新聞の開き一面にびっしりと亡くなった人達の顔写真と名前が掲載されている異様さを見て、ゾッとした。
一生忘れないと思う。
事故調が報告書を出した。文句あるか?って態度はどうなのかね。報告書自体、不明のオンパレードで遺族側が原因追求をするのは当然。
所詮は国営企業体質。期待はできないね。
日航機、オウム、宮崎…
何とも辛くただただニュースを見て無力さを感じます。
黒い背景に白抜きで氏名が流れ、知人がいないか必死で追った。
こんな暑い日やったなぁ
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