日航機墜落事故から36回目の夏、当時を振り返る『中曽根さんが抱えた真相』『生存者で芸能界スカウト受けた女の子の今現在』

スポンサーリンク
スポンサーリンク


「空の安全への願いと、弟が眠る山に登り続けた父の思いを受け継いでいきたい」。事故で弟の加藤博幸さんを亡くした小林由美子さん(62)=さいたま市=は紫色のリュックを手にして語った。

リュックは19年前に亡くなった父、留男さんが慰霊登山の際に欠かさず背負っていたものだ。現在は由美子さんが大切に保管する。この世を去った留男さんに代わって毎年、事故発生日に当たる8月12日に家族の誰かが背負いながら御巣鷹の尾根を踏み締めてきた。

博幸さんは当時21歳。都内などで芸能活動をしつつ、友人とショーパブ経営を目指していた。羽田発大阪行きの日航ジャンボ機に乗ったのは、本場のお笑いに触れるためだった。

事故のニュースで搭乗者として博幸さんの名前が出た際は、年齢が違っていたため、「どうか別人であってほしい」と家族みんなが祈った。だが、博幸さんからの連絡は途絶えたまま。「土産を買って帰る」(博幸さん)、「じゃあ、気を付けてね」(由美子さん)。搭乗前の電話でのやりとりが、最後の会話になった。

コントを披露してくれた時のこと、テレビ番組への出演…。人々を笑顔にしようと頑張っていた博幸さんとの思い出は尽きない。「ひろちゃんは夢半ばで悔しかったと思う。年を重ねて時間ができた今だからこそ、もっとたくさん話がしたかった」。普段は気丈に振る舞う由美子さんだが、尾根では自然と涙があふれ出る。

未曽有の航空機事故で息子の将来が奪われた留男さんは、200回を目標に命日以外にも尾根を訪ねた。赤いリュックを購入し、いつしか紫色の2代目を背負った。だが、目標に届かぬうちに体調を崩し、がんを患っていることが判明。2001年10月、家族と共に最後の慰霊登山に臨んだ。

「事故を風化させないために登り続けてほしい。自分の代わりに御巣鷹に持って行って」。残された時間と向き合いながら尾根で足を進める中で、由美子さんに思いを託した留男さんは翌02年6月、69年の人生の幕を閉じた。

託されたリュックは由美子さんの次男、隼也さん(31)=東京都品川区=らが毎年、尾根を訪れて背負う。留男さんの手帳に書き加えてきた回数は昨年で185になった。隼也さんは「今年もリュックを背負い、祖父を『連れて行く』。家族全員で尾根に集まりたい」と力を込める。

由美子さんは博幸さんに会おうとひた向きに歩みを進めた留男さんの面影と、空の安全を願う思いをリュックに重ねる。

「悲惨な事故を決して風化させたくない。これからも父の思いを家族で背負い、弟に会いに行きたい」

参照元:https://www.jomo-news.co.jp/news/gunma/society/316710

日航機墜落事故について【みなさんの声】

名無しさん
もう36年も経つのか
あの時の衝撃は今でも忘れられない
後になって聞いた機長と副機長のボイスレコーダーの緊迫したやり取り
最後まで諦めずに必死に機体を立て直そうとしてい会話を覚えています
無念の最期を遂げた全ての犠牲者の為にも二度と同じような航空機事故が起こらないように願いたい
名無しさん
まだ航空機関士もいた型だったから機関士さんの三人でしたね。本当に最後まで努力されていました。
名無しさん
事故当時は、貴重が悪いように記事が書いてあった。でもボイスレコーダーが流出し、実は必死で最後まで操縦していたことが分かった事件でした。


名無しさん
坂本九さんもこの事故で亡くなったんだよな
当時はとても衝撃を受けた
名無しさん
そう、忘れない。
「がんばれ、がんばれ」ってまるで愛馬に語りかけるみたいだった。。
落ち着いた、優しい声音だった。誰よりも現実を理解していたはずなのに。
最後まで希望を捨てない頼もしい機長だった。
事故後は悪く言われてしまっていたけど、あの機長だから御巣鷹山まで行けたという記事も読んだことがある。何としても、住宅街への墜落を避けたかったようだと。
犠牲になられた方々のご冥福をお祈りいたします。
名無しさん
当時、ボイスレコーダーの最後の機長の言葉「もう、ダメかも知れんね」だけが取り上げられ、それまでに必死の操縦をしていたことを知らなかった人達が、機長の遺族へ心無い嫌がらせを続けていたこともありました。
そういう報道被害も、二度とあってはならないと思います。
名無しさん
私は大元の原因となったしりもち事故のニュースも覚えていますが
その後7年も経過してこのような大事故につながるとは思いもよりませんでした
名無しさん
後輩のお父様がこの事故でなくなりました。
彼女が小学生の時の事故だったので、私達は事実を知らなくて
話の流れでこの事故の話題が出た時に急に泣き出したのでびっくりしたのですが
後から後輩と同じ学年の子に事情を聞いて遺族だということを知りました。
彼女は当時母親の実家に引っ越しをしたりと色々大変だったそうです。
毎年、日航機の墜落事故の報道を見ると彼女のことを思い出します。
今は彼女との交流はありませんが元気でいてくれることを願っています。


名無しさん
群馬に住んでいて最初長野県と報道していたが、途中で群馬の上野村。4名助かり奇跡だった。映画になったりしたが、520名の命に貴賤はない。有名人だけでなく、亡くなった方で名前がふせられた人もいた。黒沢村長の尽力を忘れて欲しくない。人が一人亡くなっても話題に、ならないが、520人亡くなると追悼される。何故なんだろう?今年も慰霊碑に行き考えた。八重桜が咲き日は落ちる頃人影はなく、静寂な村であるが当時は村民より、人がやって来た。私も過疎地に生まれたので、葬式はお祭りだ。一晩中酒が飲めると父が言っていた。大東亜戦争で4年も外地にいればその通り。今でこそわかる。都会の人には分かるかな?
名無しさん
自身は事故当時、まだ生まれていない。
ただ、時の流れは早いですね。
名無しさん
あの年って冷夏でしたよね。ちょうど海水浴に行ってて寒くて海に入れない日々、泊ってた民宿でゴロゴロTV見てたらこのニュース飛び込んできて驚いたの子供心に覚えてます。飛行機って落ちるんだ、って初めて知った。
名無しさん
その年の夏休み、ちょうど手術で入院していたのでテレビがそれしかやってなかった小学生のときの思い出
名無しさん
原因はアメリカ、ボーイング社による整備不良。
あれほどの重大事件にも拘らず、関係を壊したくない日本側の忖度により厳しい責任追及はされず終い。
そうして行き場を失った国民の怒りは、本来完全な被害者でしかない機長達へと向かったのでした…
加害者が裁かれない事によって、何とよりもよって被害者が糾弾され始めるという現象は世の中に溢れる特段珍しくもない事件でもよく見られます。(特に不起訴に終わった性犯罪事件など)


名無しさん
音声が残ってないだけで同じように東北震災の小学校でも、必死で生き延びようとした先生たちの死体蹴りをする遺族が沢山いるわけで同じような構図。
名無しさん
ボイスレコーダーは一部が改ざんされていますので、遺族数名が日航にすべて公開するように裁判中です。横田基地への着陸要請や、日航機に追尾していたファントム機とのやり取りが抜け落ちています。「こりゃ。ダメかもしれんな」
名無しさん
ぎりぎりまでがんばったから4人も生存者がいる
すごいことだ
名無しさん
墜落直後には生存者がもっと居たらしい。
名無しさん
事故報告書がそもそも「明らかにすることが出来なかった」のオンパレードですもんね。
30箇所くらいありますよね。この言葉。
ご遺族のためにも1日も早く事故の真相が明らかになりますように。


名無しさん
当時中学生でした。
救出された4人の方、、、
翌日発見された煙が立ち上る事故現場。
毎日放送されていた捜索状況と、遺族の方々の涙。
毎年思い出します。忘れません。
名無しさん
当時は小学校1年か2年でした。ニュースで流れたあの映像は今でもよく覚えている。忘れてはいけない事故です。人生の中で飛行機は1度しか乗っていない。乗らざるを得なかった時だけでした。飛行機怖くて乗れません。あの時に乗られた人たちの方がもっと恐怖だったと思います。風化させてはいけない事故
名無しさん
私も当時中学生でした。
ニューステロップが流れてからの事、36年
名無しさん
この事故は夏の甲子園の度に思い出される。
確か群馬から応援に向かう高校生も含まれていましたよね
名無しさん
ある遺族の方は真相究明のためにも物言う株主となるために財産をあらかた注ぎ込んで日航の株主になったけど経営破綻で一旦上場廃止になり全て紙屑になったそうだ。巨大な力を前にして個人の無力さを感じずにはいられないエピソードだが、それでも事の真相が明らかになる日が来る事を願わずにはいられない。


名無しさん
いろいろな陰謀説があるからYouTubeなんかではその話を野次馬根性で見たり聞いたりしてるけど、残念ながら事実が分かる時は来ないのでしょうね…。
こんな事になった本当の理由がわからないって辛いだろうな…。
名無しさん
尻もち着陸の修理をボーイング社が行い、完璧な修理をしなかったと聞いている。最後部の圧力隔壁の空気漏れによりバランスがとれなくなったと。
名無しさん
事故原因は当時から7年程前に行われた、機体尾部の修理不良。圧力隔壁が基準に合った修理がされなかった為、長年かけて破損が進み、123便が飛び上がった際に隔壁を破壊。そして圧力の掛かった空気が尾部に押し寄せ、油圧系が集中した尾翼を吹き飛ばしました。
名無しさん
陰謀なんてあるわけないでしょ。
米軍が撃墜したとか、自衛隊が何十人も乗客を殺したとか
自分の本を売りたさに好きかってなことを書いたライターは恥を知るべき。
名無しさん
陰謀説が気になっていろいろ調べましたが、そんなものはなかった
もともと事故機の修理の仕方に問題があっただけでした
陰謀の話はそういうものが好きな人達が尾ひれをつけすぎてものすごいことになってますが、事実はシンプルです
youtuberの話だけを信じないで下さいね


名無しさん
当時リアルで事故のニュース見てた人たちならば陰謀説なんて出てくるはずないのにね。
画面越しで見てても辛かったのに。
当時を知らない人が面白がって言ってるんでしょ。
名無しさん
墜落したのは修理の手抜きですよね。 発見が遅れたのにはいろりろな説がありますが こんな悲惨な事故は二度と起きて欲しくない。
名無しさん
川上慶子ちゃん…
まだ12歳の小学生だったか…
かわいかったよなー
そのかわいさにつけ込んで当時は芸能界デビューしませんか?
と争奪戦だったような…
しかし慶子ちゃんは断り続けたんだよね
いまは結婚もして、京都で看護師をやっているとか…
まっ噂ですけどね…
名無しさん
どれだけ否定されても亡霊のように湧いて出てくる陰謀論
名無しさん
陰謀論なんかとんでもな奴ばっかりやん。自衛隊が撃墜したとか(笑


名無しさん
単純に墜落現場になったというだけの群馬の上野村の人達が事故から今までずーっと、この、本来行く道がほぼ無いに等しかった墜落現場までの道を切り開いて、鎮魂の碑を建てて、毎年来る遺族の為に草刈りをしてるってことが一番忘れちゃならないことだと思います。
名無しさん
テレビから映された映像は、想像の範疇を越え過ぎて、現実のものとは思えなかったよな。
家族に向けて遺書を書いた人がいたよな。
遺体の回収と、照合した会場での作業
墜落遺体と言う本に詳しいです
名無しさん
映画でしか詳しく知らないけどこれ以上無いくらいの凄惨な事故。
そして家族が眠っているなら会いに行きたいのは当然だろうか。
気分的にはヘリポートとか地下鉄とか作ってあげたりして欲しい気分。
事故の日ばかりでは無く会いたい時に会える様になって欲しい。
名無しさん
事故当時は小学生でしたが、連日テレビで伝えられる映像に衝撃的でした。
当時の担任の先生は、新聞に掲載された乗客者リストに生徒がいないことを祈りながら確認されてたそうです。
事故の原因について諸説ありますが、真相が明らかになってもらいたいです。
名無しさん
36年前の飛行機事故はよく覚えています、
確か一人女の子が助かったと記憶していますが、その方が元気に過ごしていることを願っています。
遺族の方にとっては事故現場、一山が霊場及び霊山となるような気持ちだと思います。
いつまでも元気に、現場を訪ねるということが、心の気持ちをほぐしてくれると思います。


名無しさん
他にも、母娘で助かった方もいらっしゃいました。
女の子は整った顔立ちで、芸能界がスカウトに動いたとか言う報道も見ましたが、神経を疑ったものです。
女の子は、確かお兄さんが飛行機に乗っておらず、二人で親せきに引き取られたのだったの思います。
名無しさん
4名生存されていました。
その中の事故当時14歳だった方は知人の同級生だったそうで。
その後看護師になり、ご結婚されてお子さんもいらっしゃるはずです。
その方の話でいたたまれなかったのが、墜落当初は家族を含む大勢の方が生存していらっしゃったそうで。
だんだん話し声が聞こえなくなっていき、家族からの返事も無くなったのだと。悲し過ぎますね。
名無しさん
確か女の子は看護師になったはずです。
名無しさん
川上慶子さんね。
名無しさん
報道されていませんがある遺族がブラックボックスの全ての開示要求の裁判を起こしています。
遺族は本当の事を知りたいですよね。遺族が生きているうちに決着しますように。


名無しさん
中曽根さんも亡くなったし。真実が世の中に出る事は絶対ないんだろうな。同じような真実が明らかにならない事故が、この先二度と起こらないようにしないと、機長・副機長始め、多くの亡くなった方の死が無駄になる。こんな悲しい事はないね。
名無しさん
結局この事故も、事故の惨さは記憶される反面、責任は曖昧なまま済まされてますよね。当初は搭乗クルーの方々が責められましたが、後に、何が起きたのかもわからない状況の中で航空史上に残るといっても過言でない、懸命の操縦を続けていたことが判明。ボーイング社が事故前修理の過失を認めたものの、相応の処罰を受けたとは言い難い。単機では世界最悪の航空機事故でありながら、その顛末の杜撰さが全く釣り合っていない事故でした。
名無しさん
政府はあの事故の時、アメリカ軍横田基地の救助を、断ったのか未だに明らかにしないのも不思議な事である。
生存者がもっと居たのに悔やまれる。
日本の救助技術が低かったのはあの時代では仕方なかったがアメリカ軍に要請すればと思うのは私だけか?
名無しさん
弟さん生きておられたら私と同じ歳。
独身だった私が、今や孫がいる。
あの日から36年、年月を感じます。
名無しさん
私は、この事故の次の日に、日航機に乗って自宅に帰りました。
安全神話が崩れた瞬間であり、本当に衝撃的な事故でした。今でも思い出すだけで、心が震え涙が出そうになります。
身内の方、そして捜索救助隊の方々は未だに忘れる事ができないでしょう。このような事故は二度と起きて欲しくないです。


名無しさん
あの日の事、はっきり覚えてます。当時私は妊娠8ヶ月で主人が夜勤だったので1人でテレビを見ててそろそろ寝ようかなと思ったところニュース速報で飛行機が安否不明と。でも国内線だったのでそんなに大ごとになるとは思いませんでした。でも次々でるニュース速報で事の重大さをだんだん把握してきて、衝撃を受けたのを覚えてます。その2ヶ月後に生まれた長男がまもなく36歳。時が過ぎるのは早いです。
名無しさん
お祖父さんにしたらいいお孫さん、お母さんにしたら立派な息子さん、お若いのに家族みんなの思いをくんで登山され凄いなと思った。亡くなられた弟さんも喜んでいらっしゃると思います。
あの日、15才だったけどベストテンをみていたら速報テロップがでて無事だといいなと思った事を思い出します。あの日、自分がきていた洋服、1日の行動をあまりの衝撃で事故の事を含め忘れることがありません。
名無しさん
36年あっという間でした。私も遺族の一人です。事故を知らない若い世代はもういいじゃないか、いつまで毎年ニュースをするのだというご意見もわかります。しかし私は事故を風化させない為、再発を防ぐ空の安全のために重要なことだと思います。日航の職員も慰霊登山をして事故の再発防止を誓われる大切な日です。520名の方だけではなく家族、友人を含め何倍、何十倍の人々の大きな悲しみと多大な影響がありました。2度とそのような思いをする人が無いよう毎年のニュースや慰霊登山は大切な事と思います。今も鮮明に現場の異常な空気、暑さ、匂い、思い出します。
名無しさん
無数のヘリコプターの回転翼の音
足りないドライアイス
視点の定まらない人々の目
仮安置所になった学校の体育館
忘れられない、忘れない。
名無しさん
JALの安全啓発センターに予約必要ですが行ってみてください。御巣鷹山の事故を風化させないよう社員教育にも使われているセンターです。墜落する前に書かれた遺書などは胸を締め付けられる思いと涙が止まりませんでした


名無しさん
最近、俄に123便の真相を解明しようとする動きがある様に見える。
本当に圧力隔壁が原因の事故だったのか…事件性のある原因だったのか…沢山の方々が亡くなった事実は変わらないが、尚のこと真相究明為される事を願う。
名無しさん
あの事故は当時10歳だった私には衝撃的過ぎました。夏休みだったため、テレビをつければあの映像。昔は報道規制も緩く、中には悲惨な状態が目に入ることもありました。
あの事がトラウマになり、46歳になった今でも飛行機は怖くて乗れません。
それだけ、衝撃的でした。
そして、犠牲者遺族への報道各社の質問攻めの姿など…子供心に何だこの人達?と思ったのも覚えています。
映し出される映像に関しては今は規制も多くなりましたが、遺族にコメント求めるレポーターの不躾さは全く変わらないですよね。
名無しさん
丁度、中学生の時だった。ラジオっ子だった私は、テレビよりも早く速報と言う形でニュースで聞いてまさかと思ったが、テレビも次々と特集に変わって言った。
学校のクラスメイトが行きの大阪行きに親の帰省で家族で乗っていたと聞いて、その折り返しが山に落ちたと、もしも逆だったらとショックそうだった。
関係のあるご家族は何十年たっても忘れないし、段々時間が経過すると風化してしまうのは時間の流れとは残酷なんだなと思わせる事柄の一つです。
名無しさん
36年前、今とは違う時代で全てをテレビでやっていて心に残ってます。私は悲しみと、衝撃が走り亡くなられた方の名前を読み上げて人数が増えているテレビの中、当時は自分と同世代の少女の救出場面、そして退院した場面リアルに残ってますし、忘れてはいけない、あってはいけない事故です。
名無しさん
もうこの事故を知らない世代が多くなりました、
私の中では大震災と並び人生最大級の大きな出来事になっています。
受験生でありながら徹夜でテレビを見ていた思い出があります。
数々の異説がある事故ですが、亡くなられた乗客、最後まで生還そして被害を最小にしようと努力したクルーの方々、
恐怖の中乗客の為に全力を尽くした客室乗務員の方々、あの状況で生き残ってくれた4人の乗客。
事故の救助に当たった様々な方々。
絶対に忘れてはならない。


名無しさん
アメリカ企業の整備不良が原因なのになぜか日本側が叩かれる不可解な事故。
しかも、下手な対応したら政治的に利用される所だったという。
元々狙われてたんじゃないかな。いつか重大な事故が発生するようにね。
名無しさん
あの当時、自分は小学生でした。
暑苦しくセミが鳴く朝、ニュースが大騒ぎになっていて宿題も手につかずソワソワしていたのをはっきり覚えています。
それ以来、関連のニュースや記事と触れる機会があれば必ず気にして読む年月を繰り返してきました。
リアルタイム世代の自分にとっては、あれからこんなに年月が
名無しさん
『兄ちゃん大変や大変や!飛行機がジャンボジェットが墜ちた!!』
当時の勤務先に血相変えてやって来たのは、もう古稀を迎えようかと言うお歳で元新聞記者のお客さん。
流石に元記者さん。事故直後にも関わらず、『いつ』『どこで』って情報をキチッと押さえて教えて下さいました。
あれから36年か。。。
事故で犠牲になった小林博幸氏と他の519人の無念を思うと心が痛むわ。
原因の徹底究明を願うと共に、犠牲になった520人の追善に、改めて心より合掌。
名無しさん
当時のボイスレコーダーに残されたやり取りを聞いた事があるが機長達の緊迫するも冷静さを欠かない凄さに驚いたのと、最後まで色々試してのほんとの最後の言葉が亡くなるであろう事、乗客乗員を助けられないであろう事を覚悟した言葉なのに副操縦士達をも気遣う言葉に聞こえました。自分は最期になるであろう時にそんな言葉が出るかと言われたら恐らく言えないなと思う。
亡くなった方々が残した家族へのメッセージも恐怖の中どんな想いで書かれたのかと思うと
二度とあってはいけない事で忘れてはいけない事。亡くなられた方々が安らかである様祈ります。
名無しさん
もう40年近く時間が流れたんですね、この事故の時何故自衛隊機を同行させなったのかと思いました同行させていたら墜落地点の特定で時間がかからずに救助が早く出来たのにそうしていればもう少し助かる命があったのではと。この事故の話になると何時も有る漫画で自衛隊を辞め民間機のパイロットになった友人に多くの他人の命を預かって空を飛べるな、俺には出来ないよみたいなセリフがあったのを思い出します。操縦不能で着陸出来ない飛行機をまして街には落とせない、機長、副機長の事を考えて見ても想像がつかないどんな気持ちだったのか本当に想像がつかないです。ただただ安らかにお眠りください。


名無しさん
当時自分はすでに社会人だったが仕事関係の知り合いが搭乗していて亡くなった
自分と同年だったので二重のショックだった
搭乗客の方々はみな同じだったに違いないが
無念という言葉では言い表せないものがあっただろう
「なぜ彼は死ななくてはならなかったのか」
他人の自分でさえそういう気持ちになる
ましてや家族は一生の傷であるわけでその心の内を推し量ることも憚られる
あれから36年 合掌
名無しさん
当時とは夏の暑さが違いすぎるうえ、高齢になった遺族が登山するのは本当に厳しいと思う。
名無しさん
あれから、もう36年が経つのですね…
ヘリコプターで救出された、当時、小学生の女の子が生かされた命で看護師になる!というコメントを聞き、後、本当に看護師になられたと聞いて感動をしたのを憶えています。
もう50最近い年齢になってはるかと思いますが、このコロナ禍でも尽力されているかと。
また今年も色々な想いが、あの山にまた祈りとなって追悼されるのですね…
名無しさん
自分が生まれる前の事故。でも日本で知らない人はいないであろう大きな事故。機長たちの音声を聞いた事がありますがあの場にいた誰をも責めることができない悲しく悔しい事故だと思います。
時の流れは早いですが時間が遺族の方の傷を癒してくれるわけではないのでしょうね。事故の真相解明が一日でもはやくなされますように祈るばかりです。
名無しさん
数年前に御巣鷹山に行きました
いたるところに落とされたんだなと、それが現実だったことにぞっとしました
登山道は整備されていたので何とか登れましたが、当時はこれもなかったから本当に山の中です
現場で作業した人たちはそこに行くまでが大変だったでしょう
それにしても腑に落ちない事故です
真相はいつか明らかにされるのでしょうか


名無しさん
この飛行機に阪神タイガース球団社長の中埜(なかの)さんが乗っておられたんだよね。
この飛行機は、福岡発羽田行き、折り返し、伊丹行きだったんだけど福岡発羽田行きの便に、バース、掛布、岡田、真弓を含む阪神タイガースレギュラー選手が乗っていてチーム内に大きな動揺が広がったそうだ。
それから各球団は、飛行機異動から新幹線異動に切替、やむなく飛行機を利用する場合は、分散するようにしたんだとか・・・
名無しさん
当時はまだ小さく、記憶にはありません。
中学生の時に御巣鷹の事故10年という記事を見て知り、それから図書館で過去の新聞記事を読み、関連書籍も読みました。
一度、御巣鷹山へ行って自分の目で見たいと思っています。
名無しさん
この事故、疑惑だらけですよね。調査報告書でも解明されていないことが大部分。政府関係者は冥土まで秘密を持っていくのでしょう。
B社と交渉して、圧力隔壁の修理ミスで締めくくってしまった。。。
操縦士はまさに必至で頑張ったのに。
名無しさん
あの時の事、よく覚えています。
坂本九さんが亡くなった事もありますが、当時は高校野球に凄くハマっていたので東京農大ニ高の竹下さんのお父さんが亡くなった事も(甲子園に出ている高校の選手の身内が、、、と)結構ショックでした。
川上さんのお兄さんと(性別は違いますが)同じ年齢だった事もあって「今両親が突然いっぺんに居なくなり自分が大黒柱にならなきゃいけなくなったら、、、」とお兄さんの今後を考えたりして。
その後の病院での川上さんへの報道陣の執着ぶりはちょっと異様でした。
他に助かった母子のお子様の方、まだ小さかった記憶ですがその子ももう40代にはなっているんですよね。
月日が経つのは早いです。
名無しさん
1年生と2年生の姉弟と、そのご両親、そして母親の姉とお嬢さんの6人が、亡くなりました。私は当時1年生の児童の男の子の担任でした。夏休み前に「田舎にいくよ」と、笑顔て話していました。9月の再会を信じて別れましたが、再会できたのは6人の遺影と小さな2つのお棺が並んだ故郷和歌山での悲しい悲しい告別式でした。あのとき、形見になってしまったグランドピアノを小学校におじいちゃま、おばあちゃまが寄贈してくださいました。そのピアノに、当時の同級生だった女の子(もう、44歳になります。4月からたった3ヶ月半だけの同級生)が、毎年お花を供えてくれているそうです。いつになっても、忘れることはできないあの日と可愛い教え子たちです。今も可愛いお顔ははっきりと覚えていますが、いつも悲しげな表情です。合掌


名無しさん
当時自分は中学生だったが、事故のニュースは、今も脳裏に残っている。絶対に風化は、させたくないです。
名無しさん
事故後に生まれた人や物心の着いてなかった人はきっとこの事故の事をよくは知らないのではないかと思う。そうやって風化が起こる。
この時僕は保育園だったけど、「飛行機が落ちる」と言うことを知って衝撃を受け、かなり大きくなるまで飛行機に乗るのが怖かった。
年月が経てば、どれだけ大きな事件や事故も報じ方は小規模になっていき、そうして風化していくのだと思う。だからこそ、この事故に限らず、知ってるより多くの人が後世に伝えていかなければいけない。
名無しさん
家族でお墓参りに行くため一泊した宿の夕方のニュースがこの事故でした。中学生でしたが、鮮明に覚えています。名簿が読み上げられていて、後から機長のひっしの指令のレコーダーの声が放送されていました。
当時は考えが至らなかったけれど、真夏の山中。救助へ行った方々、遺族の方々、相当傷を負ったと思う。偶然客として乗り合わせたCAさんが生還し、色々中での様子がわかったことが救い。ただ、会社側が隠している事もたくさんあるのだろう。。。慰謝料もらっても、換えがたい事だと思う。
悲惨な事故は二度と起こってほしくない。
名無しさん
私が飛行機が苦手になったのも、この事故の報道がトラウマになったから。事故の原因は当時はわからないとされた。ボイスレコーダーのやりとり。おびただしい搭乗者名簿のテロップ。墜落現場から救出される際の映像。機長は、歯しか残っていなかったと。
ボーイング社がちゃんと亀裂を補修して塗装してくれていたら。123便が過去に胴体着陸していなかったら。尾翼から少しずつもがれるようにして爆発し、ダッチロールして、アンコントローブルになっていく恐怖を思うと、とても乗りたいとは思わない。
時間の経過が、御霊を安らかにすることなど、あるのかわからないが、夏がくると、子どもの頃に見たニュースの衝撃が繰り返される。合掌。
名無しさん
この事故のことはよく覚えています。
とても暑い夏の夕方のことでした。
友人からの電話で、声が震え泣きながら電話をしてきました。私は友人が話していることをニュースを見ながら聞いて、すぐに理解できなかったことを覚えています。
友人はお父さんを亡くされたのです。
この事故で残された遺族は当然辛い思いをしました。
また、辛い思いをしたのは遺族だけでなく、航空会社も同じと思います。
だからこそ航空会社はこの事故の辛い経験を、現代へ生かして欲しいという切実な願いだけなのです。
また、事故原因について明確に出来なかったことは仕方ないかもしれません。
事故当時貨物室で何が爆発したのかさえ見ていたわけでは無いので知る由もありません。
ただ、何もせずに出来ないこと(原因究明や隠蔽)を正当化しないで欲しいのです。
それが亡くなった方々への無念払拭と、遺族への誠意では無いでしょうか。


名無しさん
36年経つものの、真相はいまだ霧の中。
当時大手メディアで報道された圧力隔壁の修理不備も疑惑が残る。
隔壁が破壊されれば、客室が冷却化して遺書など書けないという。
垂直尾翼に自衛隊か米軍の航空標的が激突したのだという説もある。
墜落直後の山には出動できず、翌朝になって山狩りしたため生存者が激減。
真実を究明することが、犠牲者への本当の鎮魂になる。
名無しさん
あの日初めての家族での海外旅行でシドニーにいました。テレビで日本の長野に飛行機が落ちたと報道されていました。
帰国後、父の実家がある群馬に落ちたと聞いて一家で驚いた記憶があります。
海外の報道は正確ではないと感じたきっかけになりました。
名無しさん
もうすぐ8月12日、不幸に見舞われた皆様のご冥福を心よりお祈りします。
曖昧な記憶ですみません、事故の翌日だったか、何日か経過したか、当時学生の夜更かしでしたので、事故翌朝だった可能性があります。特番状態のNHKニュースで突然流れたテロップ。ここからは曖昧ですが「自衛隊員が銃撃戦で負傷」的な唐突な内容。えっ?墜落事故現場で、なぜ?とかなり面食らった記憶。続報が流れるはず、とそれから暫く画面に張り付きましたが、続報なかったか、見逃したか、そんな記憶です。
殊更に墜落ミステリーと騒ぐ意図はありませんが、NHKでしたので、未だに忘れられないまま、記憶の片隅に残っています。
名無しさん
当時小学生だった私は、事故翌日が全校登校日で、同級生たちとこの大惨事について、ずーっと話をしていました。
小学生の私には「とにかく規模の大きい前代未聞の飛行機事故」としかわかりませんでした。
救出された女性を新聞やニュースでみて、子供ながらに助かっても辛い思いがあるだろうと何ともいえない気持ちでした。
親を無くした当時の私ほどの遺族も、もう親の
年齢をこえています。遺族のこれまでと、この先を考えると毎年胸が締め付けられます。
名無しさん
あのニュースを見た時は怖かった。
今よりももっと情報が出てこない時代。明らかになればなるほど甚大な被害が。
あの時犠牲になられた方々の元に今の安全がある。でも被害者の方々の恐怖と無念は想像を絶する。


名無しさん
私も忘れることはないですね。
当時、東京ディズニーランドに行くのが私たち子供のころの憧れで、友達家族は夏休みにディズニーランドに行きました。
その帰りの事故でした。
翌日、友達と夏期講習で塾に集まっていて、○○ちゃん、乗ってたらしいで。うそ?ほんまに?っていうみんなでした会話を覚えています。休み明けて始業式で先生からみんなに報告があったとき、その女の子のことが好きだった男の子が号泣してたのを覚えています。
名無しさん
リアルタイムでこの事故を「覚えている」のは40歳以上の人ということか。
あの戦争でさえ風化してしまっているのだから、この事故が風化しつつあるのも致し方ないことだとは思うが、時間というのは傷を癒してくれる反面、寂しさも募らせる。
名無しさん
昨日付けの上毛新聞記事で、お子さんを亡くされた遺族の方が、墜落原因について独自の仮説を立てた本(何冊か出されているようですが)を自費出版したという記事が出ていました。80歳をこえた方です。我が子が亡くなった原因をこの36年ずっと調べ続けてきたかと思うと…
真実が何なのかわかりませんが、本当のことがわかる日がきますように。
名無しさん
最近ではYouTubeでいろんな情報があきらかになっています。
1番言えることは国は多くの隠蔽を犯していること。そして、事故調査委員会もJTSBもその隠蔽に加担していることです。
520の魂そして、遺族の方たちのためにも調査官たちの正義ある行動を求めます。
名無しさん
うっすらと記憶に残る幼少時の事故ニュースの映像
月日が経つのは本当に早いのですね
遺族による慰霊登山は大々的にやらなくてもよいのではないでしょうか。
コロナに関係なく、遺族の方も高齢になってくるでしょう。
8月という時期も心身に負担が大きいと思います。
JALに入社した友人がいますが慰霊登山は新入社員の入社後の必須行事、また事故機を前にした安全教育も必ず行われているそうです。
風化などせず、生かされていると思いますよ。


名無しさん
大学1年の夏休みあの日の夕方、東名高速道路の焼津付近を車で通行中、海側からジャンボジェット機が低空飛行でものすごい勢いで目の前上空を通過したのを、今でも覚えています。
自宅に着きテレビを見て、こんな大事故であったとわかりました。
名無しさん
あの日あの時、私は日航機B747に乗って成田からサンフランシスコへ向かっていました。新生活の始まりです。当時は日航機が墜落したという情報だけで便名は分からず、空港では日航機の到着が無事分かる度、出迎えの方々は皆安堵していた光景を思い出します。アメリカもしばらくは行く先々このニュースでした。私にとっても忘れられない航空機事故です。ちなみに当時1ドル=252円でした。
名無しさん
私も今まで数回慰霊させていただきました。遺族会代表の方ともお話しできて、悲惨な事故だったのだなと、ただただ、手を合わせるのみです。今年も暑くて祈りの夏がやってきます。合掌。
名無しさん
今も鮮明に覚えています。
あの日の夕方のテレビに流れたテロップ。事故現場が二転三転したこと。事故原因も憶測が憶測を呼び、まことしやかなデマが多く流れたこと。
翌朝の事故現場の映像も私の記憶に焼き付いてます。
あのような状況の下でも機長さんがクルーを鼓舞し、最後まで羽田に戻ろうとしたこと。CoパイさんもFEさんも必ず羽田に帰ると信じて、、、
なのに、一部の人は機長さんの「ドーンと行こうや」の言葉が不謹慎だ。と騒ぎ立てたもの覚えてます。
もう36年ですか。叔父が生きていれば、、、、、
こんな悲劇は2度と起きてほしくないです。
あらためて、犠牲となられた方々のご冥福をお祈りすると共に、ご遺族の方々、関係者の皆さんの心が安らぐことをお祈りします。
名無しさん
暑い日でしたね。
テレビの速報の「飛行機が消息を絶った」の意味が分からなくて母親に聞いたのを覚えています。
翌朝の現場の状況や、飛行中にすでに垂直尾翼がなかった映像など、報道を見ながら震えていました。
今でも飛行機が怖いのはもう克服できないと思います。


名無しさん
当時のことはよく覚えている。
自分は中学一年生だったが、墜落時の夜からテレビで緊急放送、凄いことが起きてると思いながらかじりついていた。翌朝、ラジオ体操から帰ってきて、朝ご飯そっちのけでずっとテレビにくぎ付け。
急降下していく機内で、家族を想い必死に遺書を書いたお父さんや、「頑張れ」と励まし合うパイロットのやりとり、垂直尾翼、ダッチロール、そして奇跡的に助かった数名の方(内、お一人は自分と同年齢の方)、様々な映像や言葉を思い出す。
もうあれから36年か。
名無しさん
あの日、私の父が西の夕空に見慣れぬ光を見た、とよく語り草にしていました。
夜になり家に有った地図を広げ、中学生の私と勝手に墜落場所を推測したりしました。父は「光が!光が!」と最後まで拘りつつ、結局「墜落場所判ったら教えろ」と言って寝床に入ってしまいましたが。
おかげで私が徹夜と相成りましたが、刻々と入る情報と搭乗者名簿読み上げの数の多さにこの事故の重大さを思い知るきっかけとなりました。
父はかつて強盗にボーナスを奪われ支給日にボーナスが貰えなかったり、単身赴任先で大震災に見舞われたりと何かと奇縁です。
もしかしたら父の見た「光」は本当に123便だったのかもしれないと、光を見た時の父の年齢を越えるとつくづく思います。
この場をお借りして犠牲となられた520名の御霊に哀悼の意を表します。
合掌
名無しさん
原因究明がされてないのですか。
原因は機体が尻もちを突き隔壁にヒビが入ったのに完全に直してなかった修理ミスではないのですか。
修理ミスをした責任者とその機体を使い続けた責任者の責任を取らせてないのが問題なのではないのか。
名無しさん
私の中学の同級生もあの事故で亡くなりましたよ。頭が良く賢い人でした。あれからそんなに歳月が流れたんだなと思う。毎日を一生懸命に生き社会貢献しなければと考えます。
名無しさん
日航側がボイスレコーダーやフライトレコーダーの生データの開示を拒否していることにも、何か闇があるように感じます。
今春、事故機の副操縦士のお姉さんが、開示を求めて裁判を起こしてしています。


名無しさん
調査ってとても開発するより工数が掛かります。
一定の範囲まで決めて調査しても、それに追加する形で調査をすると永遠に終わりません。
本来はどこまでか決めてやります…36年前じゃそんなそんな手法は無いからいつまでも引きずって要るのでしょうね。
恐らく、その機体構成していた原子・分子構造まで明らかにしても、遺族は明らかになってない言うでしょうね。
名無しさん
日本側が事故調査をしようとしたらボーイングが「当方で調査する」と強硬に主張したことに強い不信感を持った。何かを隠したかったのか。あれで空の安全は守られるのか。
名無しさん
遺族との賠償交渉、遺族の第一声は決まっていた。「今は話すことはない!帰ってくれ!」。門前払いの連続だったし、ドア越しに罵声を浴びせられることも多かった。この苦難の交渉に当たったのは、退職した日航社員が駆り出された、と読んだ。現役の社員にやらさず、定年退職した社員に苦労を背をわせた。なんというエリート意識だ。
名無しさん
もう、36年ですか!?
早いですね、神奈川に住んでいますがあの日あの時間(の少し前)日航機らしき物が上空を飛んでいきました。
その後ニュースを見ました。多分あの飛行機だったんじゃないかなぁ・・・・・・今でも思います。
その後私の関係者はいませんが慰霊と言うことで御巣鷹の尾根に行きました。
まぁ、亡くなられた方の氏名やその場所まで示されていて、思うととても凄惨な事だったんだなぁと思いました。
それとともに、製造会社の単なる手違いで・・・と言うことで修理した者達には何も罪に問われていません。
政治判断なんだろうか???今でも憤りを感じます。
御巣鷹の尾根は、ちょっとした小山程度です、里山に行かれるだろう方ならどなたでも登れます。一度お参りに行かれても良いかと・・・・・・(強制ではありません)。
名無しさん
事故当時、16歳だった私は職場の喫茶店でこのニュースを見た
ただただ 呆然としてニュースを見てた記憶があります
そして、その中に坂本九さんの名前ショックでした、北海道にゆかりのある方だったので。


名無しさん
地縛霊になっているわけでもあるまいに、もう少し場所にとらわれずに供養する道も考えて良いのでは。この事故に限らず、何十年も経てば関係者の高齢化は進みます。
名無しさん
米軍機に依る誤射説、自衛隊機に依る訓練時の誤射説等、未だに諸説飛び交っています。
当時、大学3年の夏に地元に帰省してバイトをしていた最中に、突如舞い込んで来た臨時のニュースでした。
犠牲になられた方々は元より、ご遺族やご友人・知人の皆様が安寧でありますように…祈り
名無しさん
私は由美子さんと同じ年齢です。あの日、大阪の服部緑地に友人と出かけ(あの頃は関空も無く大阪空港を発着する旅客機のロゴマークまで、くっきりと見えていました。)、帰宅した私に父が「旅客機が行方不明らしいよ。」と言った時の衝撃は今でも忘れません。その後、続々と入る最悪の続報、当事者の遺族の方達の絶望や悲しみや怒りは想像を絶するものだったことでしょう。陰ながら毎年、ご冥福をお祈りさせていただいております。
名無しさん
あの日が近くなってきました。昨年は事故から35年ということもあって、山崎豊子さんの「沈まぬ太陽」を読みました。日航側にも大変苦難をあじわった方々がいらしたことも知りました。航空機事故は一瞬で多くの人の命を奪い、関係者の方々に図り知れない悲しみと苦しみを残します。航空会社には何よりも「空の安全」を第一に考えていただきたいです。
名無しさん
大変失礼だが、年齢のこともある。どうしたって肉体的には衰える。若い頃のままではいられない。無理に登らずとも、気持ち・想いだけ冥福をお祈りするだけでも良いと思います。


名無しさん
夏の暑い時期になると必ず思い出す
8月12日の[日航ジャンボ機墜落事故]今年で、36回目の夏を迎える
青空の中小さく見える飛行機の安全を願わずにはいられない!今日も安全に
名無しさん
第一報を聞いたのは、境正章さんと榊原郁恵さんが司会をしていた歌番組でした。郁恵さんが「羽田発の日航機が消息不明のニュースが入りました。何事も無ければいいのですが」…と、出演者の歌が始まる前に言ったのを覚えています。
名無しさん
やましいことだらけだから開示しない。安倍の加計の時と同じ。ネットや証言からだと、自衛隊のミサイルが当たったというのが有力。人命救助優先なら米軍の支援を断るはずもない。証拠隠滅の時間稼ぎでしょう。当時でも墜落した現場は容易に見つけれたはず。燃えてるんだから。助けれた命を放置した罪は重い。そして隠蔽に加担した奴ら、いい死に方はしないだろう。
名無しさん
8月12日は私の誕生日です。
誕生日が嬉しい一方たくさんの方の悲しい日であると思うと少し複雑でした。
名無しさん
当時の首相も墓場まで真相を持っていってしまった為に、まったく闇の中に…。
本当の真相を究明するジャーナリストがいないと、これ以上は無理でしょうね。


名無しさん
あの音声記録を聞くと未だに泣いてしまう。墜落までの間、乗員、乗客は地獄のような恐怖のなか亡くなってしまいましたね。決して忘れてはならない事故です。
名無しさん
当時の犠牲者の方へも勿論のこと、その後フォローにあたった日航社員の方が5年前に亡くなったことも忘れてはいけません。
ご遺族にも長年親身に対応し慰霊登山準備中の滑落事故だったそうです。
名無しさん
オリンピック閉会式の時に、上を向いて歩こうが流れた時に、世界の人が解る日本歌謡曲の最も誇れる曲だと思い出した。
坂本九さんは永遠なり
名無しさん
私もあの日のことは覚えてます。
親戚に遊びに行ったら本家が親戚一同を集めてくれました。
親戚一同で晩御飯食べながら見た夕方のニュースで知りました。
その時の親戚みんなの残念そうな表情をよく覚えてます。
名無しさん
当時高校生てした。愛読誌の常連投稿者の方が搭乗されていて、亡くなられたことに衝撃を受けたのを今も鮮明に覚えています。状況の分からない中、一晩中テレビのニュースは飛行機の行方を探して特番を放送していました。夜明けの悲惨な山肌は一生わすれられませ


名無しさん
日航機123便、この日は羽田新千歳と羽田福岡を往復そして羽田伊丹の往復の計6回だった
この直前の福岡羽田には平和台で試合を終え翌日から後楽園での読売戦を控えた阪神の選手らを乗せていた
名無しさん
つい先週かな、YouTubeのおすすめに突然出てきまして、夢中で見ました。コクピット内のやりとりが鮮明に記録されてて、言葉になりませんでした。
名無しさん
未だにこの事故に関係した書籍なども出るが、何時までも、ご遺族の気持ちを弄ぶような形にはしないでほしいなと思います。
疑えば、事実も嘘になってしまう。誰かが陰謀だと言えば、疑う人も出て当然です。
名無しさん
未だに整備の不備だったのかも不明で中曽根が墓場まで真相を持って行ったからな。
オリンピックで上を向いて歩こうを流していたけど、何も解決してないのに
名無しさん
日航123便は垂直尾翼の欠損でコントロール不能になったと記憶しているのですが、左右のエンジンには、異常はなかったのですよね。
フライトレコーダーを聞いていて疑問に思ったのですが、飛行機をコントロールするにあたって、左右のエンジンは生きている訳ですから、左右の出力の調整によって機体をコントロールできなかったのでしょうか?
飛行機を操縦したことがない素人意見ですが、エンジンが2機の船舶では、その方法でコントロールは可能です。
勿論海上と空中では全然条件が違うと思いますが、フライトレコーダーを聞いてる限りでは、そういった操作は行っていない様子でした。完全な素人意見です。すいません。


名無しさん
様々な関係者の本やテレビやyoutubuや中曽根の墓場発言や直後の自衛隊自殺者の多さや相模湾に沈んでいる機体を回収しないなどを考えて、
やはり自衛隊の誤射説が正しいように思えてきた
生き残った人の証言でもあるように比較的早い段階でヘリが来ていたことは事実らしいし、すぐ救助できていればたくさの人の命も助けることができたはず。
というか生き残った人は殺すことに失敗人達という説もあって本当に恐ろしい事件だよ
名無しさん
ジャンボジェットは絶対に落ちないという神話が壊れた瞬間でしたね。周囲にも何人か関係している人が何人かいました。今、思い出しても痛ましい事故でした。
名無しさん
この様な犯罪が事故として片付けられ自責の念で自衛隊員が何人も自殺に追い込まれた。軍人出身の中曽根が諸悪の根源。アメリカはよく妥協しましたね。しかし理屈なしで亡くなられた方々の地獄の苦しみの後に遭難は成仏されてない方々も多数でしょう。
名無しさん
たまたま海外で会ったイギリス人が航空事故を調べるのが好きらしくて、この事故には疑惑があると言ってたな。はっきり疑惑の内容を言っていたがそれは忘れた。
名無しさん
この事故、何故か相模湾海底に沈んだ機体の残骸は一切引き上げず、ボイスレコーダーの公開も一部のみ。本当に隅々まで調査しているのか怪しい、世界的に見ても珍しく、謎だらけの事故です。


名無しさん
中曽根元総理が亡くなったのだから、もう事実を明らかにする時期ではと思う。過去に学ばないと日本の未来はない。
名無しさん
子供ながらに大変な事が起こったんだって思った。
新聞の開き一面にびっしりと亡くなった人達の顔写真と名前が掲載されている異様さを見て、ゾッとした。
一生忘れないと思う。
名無しさん
日航側の対応も誠実性がないですな。
事故調が報告書を出した。文句あるか?って態度はどうなのかね。報告書自体、不明のオンパレードで遺族側が原因追求をするのは当然。
所詮は国営企業体質。期待はできないね。
名無しさん
私の人生で衝撃的な事故、事件の一つ。
日航機、オウム、宮崎…
何とも辛くただただニュースを見て無力さを感じます。
名無しさん
修理から帰ってきた機体の不備に気付かず数年飛んでいた。金属疲労により尾翼が吹っ飛んでも暫く飛行していた。必死に守ろうとしていたんですよね。
名無しさん
アナウンサーが、夜通し搭乗者名簿を読み続けていた。
黒い背景に白抜きで氏名が流れ、知人がいないか必死で追った。
こんな暑い日やったなぁ




スポンサーリンク
スポンサーリンク
時事ニュース
スポンサーリンク
この記事をシェアしよう
レオンをフォローする

コメント

タイトルとURLをコピーしました