東京都豊島区で起きた大量毒殺事件『帝銀事件』
戦後史の謎の事件の一つとされる帝銀事件は1948(昭和23)年1月26日、東京都豊島区の帝国銀行椎名町支店(当時)に男が現れ「伝染病の予防薬」と称して2段階で液体を飲ませ、行員と家族計12人を殺害。現金を奪った。
手口から「731部隊」など旧日本軍の元謀略部隊員らが疑われたが、占領軍の圧力で捜査方針が変更された。
戦後史の謎の事件、再審のカギは毒物
1980年、筆者は所属する通信社社会部で事件の洗い直し取材チームに加わった。
「ネタ」は(1)警視庁捜査一課係長が残した「甲斐メモ」、(2)平塚八兵衛刑事の捜査記録、(3)「O真犯人説」――の3つ。
平塚は警視庁の名物刑事で、「帝銀」では類似未遂事件で使われた名刺の捜査を担当。
平沢貞通元死刑囚の逮捕に結び付けた。
捜査記録は和紙を糊でつないだ「巻物」。本人は前年亡くなっており、どうやって入手したのか……。
「O」は実在の歯科医師で、一部の帝銀事件マニアが固執し、事件の状況を彼に当てはめて謎解きしていた。
筆者は甲斐メモを基に取材。
生き残りの行員である竹内正子さんの夫の元読売新聞記者にも話を聞いた。
彼は、犯行に使われたのは遅効性の毒物で、旧陸軍第九技術研究所(通称・登戸研究所)が開発した青酸ニトリル(別名アセトン・シアン・ヒドリン)だと主張した。
筆者は、同研究所の開発担当者や旧731部隊員らにも取材。
元死刑囚の支援団体メンバーが「真犯人」と名指しした元陸軍軍医(故人)の足跡を追って九州の炭鉱地帯にも行ったが、真相には近付けなかった。
平沢元死刑囚の冤罪の可能性について
その後も事件との関わりは続いた。
個人的には、平沢元死刑囚の冤罪の可能性は強いと思う。
だが再審請求は認められず、元死刑囚は1987年に95歳で獄死。
養子が請求を引き継いだ。彼とは長い付き合いで、よく深夜に電話をかけてきたが、6年前孤独死。
再審請求は別の親族によって現在も第20次が継続中。
毒物については異説もあり、その解明が最大のカギだ。
帝銀椎名町支店11名を毒殺した犯人は果して平沢か。
その恐怖の手より免れた竹内正子氏は“否”と叫んでいる。
初出:文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「帝銀事件の悪夢」
平沢に会って「ホッとした」
平沢に会ったのは、ただ一度だけでした。
うす暗い警視庁の調べ室の中で、会ったというより見せられたわけです。
昭和23年9月のはじめ、確か平沢が北海道で捕まって10日ほどたった日だったと記憶しています。
鈴木という警部の方と話をしていて、私が入って行った時、別段どうという感情もない顔で私の方を眺めました。
私に声を聞かすために鈴木警部がお天気のことを話しかけ、彼が暑さが非道いというようなことを答えていました。
私としては、もしかするとその部屋にいる男に、殺されかかったのですし、当時はまだ恐怖が冷めきったというほどでもなかったので、幾分おっかなびっくりといった気持で、その部屋に入って行ったわけですが、こちらをみつめる平沢の顔は、あの時の犯人の顔と何か根本的な違いがある、むしろ親しみすら感じられるお爺さんといった顔だったので、瞬間実はホッとしたといったところだったのです。
これが私の平沢に対する第一印象です。声は別段気にも止めませんでした。
銀行員全員が乾杯するように毒を飲んだ経緯
青酸カリの味はウイスキーみたいなものです。強い濃いウイスキーですね、喉が焼けつくような、そんな味です。
だけどただそれだけなんです。苦しくもなんともないボーとしちまう、もう後は何も判らないんです。
死ぬことって安外楽なのですね。死ぬなんてなんだか簡単すぎて頼りない感じで。
だけど助かってからは苦しみました。
吐いて、うなってそれは苦しんだんです。
矢張り生きるほうが死ぬより苦しいということですね。
青酸カリを飲んだ経緯は、新聞の通りなんです。
結局皆で信用しちまって、皆で一緒に飲んだんです。
誰でもそうだろうと思うんですが、職場の人が一斉に集って何かやる。
次の瞬間自分も含めてその人たちが全部死ぬなんて、それもその職場の中で。
いつもの通り柱時計は時を刻んでいるのですし、表通りを行く人の下駄の音も聞えてくるわけですからね、それが全部死ぬなんてとても考えられません。
ですから、支店長代理を先頭にまるで乾杯するようにして飲んでしまったわけです。
犯人「近くで赤痢患者が出た。だから大消毒をやる」
犯人は本物の医者だったんじゃないか
それにしても犯人は落着いていました。
落着いているというより、独得の落着きをもっているという方が正確です。
お医者さんの持っているあの落着きですね。
よく子供の病気の時など、往診で来て頂くと誰でも感じるでしょう。あの落着きです。
こちらの興奮をたしなめるような、幾分おっかぶせるような独得の雰囲気。
ちょっと冷いような、大袈裟過ぎるけれど一種荘厳な、そんな雰囲気、それがあったんです。
だから支店長代理も皆さんも全部信用したんです。
死んだ方のことはいいたくないんですが、中には疑い深い人だって、なかなかのウルサ方だっていたんです。
鋭い人、考え深い人もいました。それなのに、皆さんが皆さんとも信用したんですから、犯人はやはりお医者さんじゃなかったんでしょうか。
犯人に命令されて飲んだわけではない
犯人が私たちに薬を飲ませる前、約10分ぐらい吉田支店長代理は、犯人と話をしていました。
犯人の口実は銀行に取引のある人の家から赤痢患者が出た。だから大消毒をやる。
ポート中尉とかいう進駐軍の人が、いま消毒班を連れてくる、自分は一足先に行くようにいわれてきたのだというのです。
実際犯人のいう通り銀行からほど近い所に相田小太郎という得意があり、その朝、赤痢患者が出ているのです。
それにしても、もう進駐軍が知って消毒にくるというのは早過ぎるというので、吉田さんがこの点を追及しますと、犯人は、患者をみた医者が直接進駐軍に知らせたんだ、と返事をしたそうです。
とにかくこんな調子で10分近く吉田さんは話をしているんです。
決して一方的に、無条件に犯人に命令されて薬を飲んだのではなくて、一応疑って色々聞いて、そして納得して飲むことになったというのが、真相なんです。
犯人自らも飲み干した、茶碗に注がれた”第一薬”
私が自分の席を立って薬を飲みに行った時は、大半の人が犯人を扇のカナメにして半円型の形になって集っていました。
私は犯人と向い合う位置で、阿久沢さんは犯人の右側、田中さんが左側、吉田支店長代理は、犯人と並ぶような恰好になったのです。
犯人と私たちの間にある机の上には、私たちの茶碗全部をのせたお盆がおかれ、茶碗の中には、すでに毒薬が入っていました。
犯人の手もとには、銀行が出したお茶の茶碗がおかれ、この茶碗の中にも薬が注がれていたわけなのです。
田中徳和さんの証言によると、犯人は暗紫色の小さな薬ビンから、途中にふくらみのあるスポイトで16個の茶碗に薬を注ぎ、自分の茶碗にも同じように薬をいれているわけです。
集った人たちは、DDTでも頭からかけられるのかな、といった不安をもっていました。
髪の毛も白くなるし、困った事ね、などと話している人もいました。
そのうち、「いや、あの薬を飲めばいいんだとさ」という人や、「赤痢の予防薬なんて、初めてだね」という人も現れ、とにかくコチョコチョ、がやがやという情況だったのです。
とにかくゴクリと喉仏の所が動いたのを、確かに私は見た
この間犯人はボツボツと席を立って、集ってくる人たちを眺めながら待っていました。
別段緊張した様子もなく悠々と落ち着いたものでした。
16人集った時、犯人は「これで全部ですか」と吉田さんに質ね、「ええ、これで全部です」という吉田さんの答に、一わたり皆の顔を見渡してから、説明を始めました。
説明といっても、これは赤痢の薬だとか進駐軍の薬だとかいう説明は、私たちにはしないのです。
後から判ったことですが、それは吉田さんにだけ話しているのです。
「この薬には第一薬と第二薬があって、第一薬を飲んでから、1分間以内に第二薬を飲まないと、効果がない。第二薬をわける都合上第一薬は一斉に飲んで、茶碗を又ここにおいてもらいたい。この薬は非常に強い薬で、歯にふれると、ホーロー質を傷めるから、舌をこう丸めて」と犯人はいいながら、舌を前の下の歯と下くちびるの間にはさみ、口をあけてみせながら自分の前の茶碗をとり、薬をのどの奥の方へ注ぎこむようにして飲んでみせました。
私たちは皆犯人の口元を注視していたわけです。私も阿久沢さんも、マジマジとそれをみつめていたわけです。確かに、犯人は茶碗の中の液体を、飲みほしました。ゴクンと喉がなるというんですか、音まではとにかくゴクリと喉仏の所が動いたのを、確かに私はみたのです。そして、田中さんの証言によるとその液体は私たちのと同じ毒液だったわけなのです。」
死一歩前の生還
それはとにかく、お手本まで示されたのですから、私たちは犯人の「どうぞ」という声に一斉に手を出して、自分の茶碗を取り、一挙に飲みほしました。
薬の量は盃に3分の1ほど、味はさきほど書いたように濃いウイスキー、喉に焼きつくような感じでした。茶碗を、もとのお盆に返しました。
犯人は机の下から、ちょうど「うがい薬」をいれるようなビンを取りだし、16個の茶碗に注ぎました。
毒薬を飲ましておきながらしかし犯人は落着いたもので、順々に第二薬を分配したのです。
ビンの口から直接茶碗に注いだのですが、手ぎわよく、余りコボシもせず注ぎ終りました。
皆、喉がヒリヒリするので、終るのを待ち兼ねるように手を出しこれを飲んだのですが、喉のヒリヒリが治らないのです。
しかしまだこの時は皆さんしっかりしていて誰も第二薬をこぼしたり、茶碗を取り落す人もいなかったのです。
2、3人の人が、「ウガイに行って宜しいですか」と質ねると、犯人は、「ハイ宜しい」と答えました。
そこで、皆、洗面所の方へ走りました。洗面所に行くと、ちょっと手前に台所があって、此処の方が早いと気がついてのぞいてみると、もう2、3人の人影が、水道の所に集っているので、また気が変り洗面所に行ったのです。
先頭で、計算係の西村英彦さんという38歳になる人がウガイをしており、女子行員が2名、その後に続いておりました。
私は、4番目だなと思っている時、先頭の西村さんが、くずれる様にしゃがみこみ、そしてあおむけに倒れたのです。
「西村さんが」と、私は思わず声を出してのぞきこむと、大きな目を開けて倒れているのです。
その目のあけ方が異様に感じられて、私は、「吉田さん、西村さんが倒れましたよ」と叫びながら、店の方へ引き返したのです。
「毒を飲まされた。皆やられたに違いない」
しかしまだ、これは大変なことになったという感じを持っていたわけではありません。
また、毒を飲まされたとは、もちろん感づいていないのです。
この辺のところを考えると私ももう薬がまわってきていて、思考力がなくなっていたのかも知れません。
この時は、すでに第一薬を飲みほして4、5分は経っていたと思います。
私はお店の方へ戻ろうとして、途中で気を失ったのです。
フーッと判らなくなって、それでも2、3歩あるいたのでしょうか。気がついた時は、小使室に居りました。
あれで、30分ぐらい気を失っていたのでしょうか、気づいた時は、あたりが薄暗くなっていました。
「毒を飲まされた。皆やられたに違いない」と考えました。割合しっかりしていたと思うんです。そして、どうしてもこれは外の人に知らせなくては、と這い出したわけです。
苦しくて苦しくて、こう息がつまるような苦しみなんです。
あとで話をきくと、まだ皆さん死に切れなくて大きな声でうなっていたそうです。
だけどそんな声は聞えないのです。また小使室の入口や廊下に、倒れていた人や死体があったのですが、それにも気がつかない。無我夢中でのり越えて、這い出したのです。
外に出て助けを求めた
表は、人の顔や着物の柄が、判るくらいの明るさでした。
最初に通りかかったのは、27、8歳位の主婦が2人、買物の途中で袋をさげ、1人は赤ちゃんを背負っていました。
私は、「銀行の中が大変です。早く交番へ知らせて下さい」と頼みました。
しかし、私のいっている事がわからなかったのか、私が這っているので、酒でも飲んで騒いでいるのとでも思ったのでしょうか、“なんだろう”といった顔を、お互いに見合せているばかりです。
次第に人が集り、5、6人になりました。
私は、これは知っている人に来てもらわなければ判ってもらえないと判断して、すぐ銀行の筋向いにある、鴨下酒店の小母さんを呼んで下さい、と叫びました。だんだん人が殖え12、3人になったと思います。
そのうち巡査が1名きて、私を再び行員の出入口になっている玄関に担ぎ入れ、どうしたのかと事情を質ねるのでした。
「赤痢の予防薬を飲んだこと、そのため皆倒れたこと」を話すと、しつっこく今度は、犯人の人相や服装を訊ねるのでした。
あれで、15分ぐらいも質問に答えていたのでしょうか、再び気を失い、気がついた時は聖母病院に収容されていたわけです。
あの手この手の新聞記者に追われる日々
病院生活は10日間でした。
苦しかったのは収容されたその夜で、胃の洗浄、浣腸が済んだあとは、どうということはなかったわけです。
私たち生き残り4人は、ベッドを並べて一部屋にいたのですが、いつもカーテンのかけてある窓の外には、新聞記者が大勢詰めかけているのです。ガヤガヤ1日中騒いでいるのです。
確か入院3日目のお昼ごろですか、毎日新聞社会部の増田記者だと記憶しているのですが、白いうわっぱりを着て、お医者みたいな顔をして、入ってきました。
ドアの外に1人、内側に1人、巡査が見張りについていて警戒しています。
また部屋の中には大抵、2人1組の刑事が、私たちの証言をとりにきていたのです。
それでこの部屋に入ってきて直接私たちの話をとるということは、新聞記者にとっては大変な魅力なのでしょうが、仲々入れないのです。
そこを通り抜けて、増田さんは来たのですが、頭にタオルをかぶっていたので直ぐ見破られ、看護婦さんに外に連れ出されてしまったのです。
あの病院の看護婦さんは、修道院のそれのような白い布をかぶっているので、お医者も白布をかぶっているものと、思ったのでしょう。
しかし、この増田さんの冒険は、大分窓の外の記者たちを刺激したとみえ、その日の午後、1人の記者が、長い竹竿を回転窓の所から差し込み、しめてあるカーテンを突然開き同時に、脚立に乗っている写真班がフラッシュをたいたのです。
ドアの内側に腰をかけていた巡査は、とび上って驚きました。しかし、窓の外からの撮影でこれは失敗したと、あとから聞きました。
出会い
恐しかったのはその翌日の夜です。9時過ぎ、寝る前の御不浄に行った時、お手洗の窓から、突然アカジミた鬚づらが現れ、ホソボソとささやくような低い声で「村田さん、おからだどうですか」とはなしかけられたのです。
臆病な私は脊筋が凍るような恐しさを覚え、思わず、“お母さん”と金切り声を上げてしまいました。
形勢不利と、“顔”は闇の中に消えましたが、この人は、読売社会部の白土記者、主人の親友で、その後おつき合い願っていますが顔に似合わない優しい人なのです。
その顔も当時は捜査本部に詰めっきりで垢だらけ鬚ぼうぼうだったので、特に恐しくみえたのです。
考えてみれば何時くるか判らないのに、寒い冬の夜、それも便所の窓の下という臭い所で、全くお気の毒というより仕方ありません。新聞記者は、ほんとに好きでなければ勤まらないと思います。
死・生還・結婚コース
主人と最初に会ったのは、退院した翌朝でした。
退院したその夜、彼が会いにきて義兄に断られ、なかなか帰らないので、押し問答をやっているのを、私は2階で聞いておりました。
しつっこい人だな、と感じました。
そして、明日から、また、さぞうるさいことだろうと考えていたのです。
翌朝9時ごろ、来たのです。写真班を連れて、大きな果物カゴを持って。
彼は、私の手記が欲しいというのです。
文章は、下手くその方が感じがでてよいというんです。目の前で書いてくれという要求です、果物の手前、私は弱ってしまい、止むを得ず書いたのです。
彼は、意気ようようと一種異様な臭気を残して引き揚げて行ったのですがこの時はまさか、この人と結婚するとは思いませんでした。
プロポーズ
彼から結婚を申し込まれたのは、5月の中旬だったと思います。
その頃は、事件の捜査のスピードも落ちて、警察からの呼出しも一段落という状態だったのです。
新聞記者もひまになったとみえ、床屋にも行くようになりYシャツも替えるのでしょう、不潔な彼も、まあ普通の状態になっていました。
しかし、余りミナリはかまう方ではないらしく、ズボンも筋目はたってないし、靴も買ってからみがいたことがあるのかしら、と思うような靴をはいていました。
容疑者の面通しの結果を知る為にも、新聞記者の人たちは、私たちと仲よくしてなければならなかったのでしょう。
彼に限らず、毎日新聞の三谷記者、朝日新聞の長谷川記者などとは、よくお茶を飲んだり、映画をみせて頂いたりしていたわけです。もちろん1人ということはないのです。田中さん、阿久沢さんと3人か、阿久沢さんと2人、というのが多かったのですが、私と阿久沢さんが主人に招待されると、不思議と招待されるその日に、阿久沢さんが用事ができて、行けなくなる。
2度、3度こんなことが続いて、偶然だったんでしょうね、まさか主人の策略とも思えないんですが。
でも、うまいんですよ仲々。
ボードレールの詩など諳誦したり、ドストイエフスキーを語ったり、いま考えると噴き出しちまうんですが、娘の時はついフラフラと感心しちまうのですね。全くイマイマしいような話です。
「平沢は犯人と思えません」
投書による誹謗中傷
平沢の死刑が確定した時、私は新聞記者に聞かれて、正直に「平沢は犯人と思えない」と、感じたままを答えました。
ところが、それから私の家には投書がたくさん舞いこんだのです。
その殆んどは、「余計なことをいうな。ロクに覚えてもいないくせに」とか、「青酸カリをよろこんで飲むような頭で、何が判るか」とか、「捜査したものの苦労もしらないで」とかいうものでした。
私は聞かれたから答えたまでなのに、投書する人たちは頭から私を批難する、ヤレヤレという所ですね。
夫の影響で平沢を無罪と言っているのではないか
ヤレヤレといえば、平沢一審の時、法廷に呼ばれて証言を求められたので、「平沢は犯人と思えません」と答えたところ、高木検事が起って、「証人の夫は新聞記者で、平沢を白と主張している。その影響で証人も白というのではないか」と論じておりました。
検察側に十分な証拠があって自信があるならば、証人のうち1人ぐらいが“白”だという方が、かえって裁判に、客観性がでてよいと喜ぶでしょう。
余程これは自信がないのだな、と思いました。夫がどうだから妻がどうだ、という考えは、古くさい考え方ですね。
毒物は青酸カリではないんじゃないか
主人の白説と私の感想とは、全然関係がないのです。
主人のいうのは、犯人がどうとかというより、あの薬が、青酸カリじゃないんじゃないか、というんです。
つまり、皆が飲んで、4分も5分もしっかりしていた。8歳の子供もやはり、洗面所まで行ってから死んでいる。
青酸カリならもっと早く死ぬべきだし、少くとも青酸加里を使う犯人は、早く死ぬことを計算にいれておくべきだ。
ところが犯人は1分たったらこれを飲めとかいって、落着いて第二薬を配っている。犯人は、むしろ薬の遅く効くことを、計算にいれていたようだ。などという探偵小説みたいなことをいっているのです。
私はただ平沢は、どうもあの時の犯人のようじゃない、という感じをいっているのですから、全く違うことなのです。
違うという感じはあの時の犯人はとにかくお医者だったということなのです。
例えば、私たちに薬をのませるのに、「これは赤痢の予防薬だ」ということを、説明していないのです。
“私たちは飲むんだ”と頭から決めてかかっているわけです。只、飲み方だけ説明しているのです。
日本のお医者さんは、こういうとおこられるかも知れませんが、そういうところがあると思います。
いちいちこの薬は何で、などと説明しないところが、日本のお医者の“権威”あるところだと思うんです。
そして犯人からそういう“権威”が感じられたんです。
真犯人と平沢の顔は違う
また顔も違うんです。平沢の顔は、どうもほほ骨が、発達し過ぎているようなんです。
犯人を真正面からみているのは私と吉田支店長代理です。
私は、どうも平沢のほほ骨が、気にかかるのです。
(筆者は事件当時の帝銀行員)
参照元 https://news.yahoo.co.jp/articles/b3406aaef3370411d5e6beceb63df5ee4276c60b
みなさんの声
何度も何度もその時のことを思い出しながら証言し、書いたものだと思うんだけど、それにしても細かいところまでよく覚えているなと思うし、落ち着いた文章だなと思う。
そして、最初は疑っていた支店長も結局は騙されてしまったというところに恐ろしさが増す。
文章構成とか表現のうまさは、もしかしたら誰かの手伝いもあったのかなとも思いましたが、犯人をお医者さんだと感じた理由の部分なんか、凡人が「なんとなく」「そんな雰囲気だった」で済ませてしまいそうなところを、すごくよく相手を観察されて、分かりやすく言語化されているなぁと感じました。
さすが銀行勤しているだけあるというか、賢くて冷静な女性だなと感じました。
これを考えた人間はある程度の知識がないと、銀行へくるある意味勇気もないだろうし、芝居も打てなかっただろう。
それを思うとその専門家なのかな…と考えてしまうけど、これだけの虐殺を平気で行える人間はそうはいないと思うんだが。
今でも覚えているのは、「兄が犯人だったかどうかは自分はわからないが、疑われてもしょうがないような普段の生活態度だった」と述べておられた事です。
当時は未だ若かったのですが、常日頃から自分の行動には気をつけなければ、どんな疑いに巻き込まれるか分からないと思ったものです。
当時の画家として生きていく上で、春画を描くっていうのは死刑よりも怖いレッテルを貼られるってことなのかもね。
その中でも「どちらが常識的な人に見えるか」と「どちらが正しいか」が異なる場合もある。
身内の「犯人かどうかはわからない」発言が
「身内だから擁護するわけではなくて冷静に客観的に見れば」という意味なのか、「身内から見ても可能性はあると思う」なのか?
どちらとも取れるし、記者が前後を繋げるか発言ぶったぎれば、上手く読み手を誘導できそうな気もする。
自分は当時の事を知らないのでどのくらい疑わしいのかや当時の世間の空気感もわからないため色々想像してしまいましたが、
(全員とは言わないけど)犯人決めつける警察やメディアのやり方、文字を介した伝え方伝わり方の難しさ、正義厨の一方的な誹謗中傷など、きっと今も昔もその辺りの問題って変わらないんだなぁと勉強になりました。
今も昔も変わらない。一度事件の犯人として目をつけられたら日本では犯人になってしまう
これだけ、はっきりと証言し、かつ、明確な物証もないのに、犯人にしたら、そりゃ判決に納得できるわけないですよね。
落としの八兵衛と言われたが、今となってはどの程度の冤罪率だったのだろうか?不明だよね。
科学捜査万能以前の社会だったし。
この事件にしても然り、なぜ平塚がいまだにヒーロー扱いされるのか、試験も通らずに実績を買われて警部補までに昇進したのか私にはサッパリ解らない。
頭が良く、話術が巧みだったそうで、誘導尋問が得意だったそうです。
子供の頃から、そんなエピソード持った方ですからね!
日本語は出来るが外人では無理だったんだね
その犯人と目される神父はカナダで生きているとか(高齢で現時点では死んでいるかもしれないが)
真実は、やった者とやられた者のみしかわからないかと。
けれど、この女性の「私は違う気がする」という言葉。
何の裏付けもないかもしれないけど、これは重みがあります。
冤罪は絶対にあってはならないことです。
「人が人を裁く」ことは仕方のないことですが、非常に怖い部分もありますね。
状況証拠も曖昧で、自白のみ。
死刑反対運動のきっかけになってしまったのは残念なこと。
すると『聖母病院』という病院の前を通りがかりましたが「変わった名前の病院だな」としか思いませんでした。
『帝銀事件』知ってはいたんですがね。
被害者の方が運び込まれたのがそこだとは。
ちなみに、今でも『聖母病院』はあります。
帝銀事件は、戦後すぐの混乱期でGHQの占領下であったことがかなり関係してると思います。
『疑惑α』という本があって、すごく不思議で興味深い内容です。
自分としては、あれが?、と思って急に生々しく感じたのを覚えてます。
近いエリアに、陸軍の鍛錬場であったという箱根山があったり、あとは飛行場があったとか、また陸軍医学校があって戦後人骨が多数発見されたとか、いろんな話があります。
今は引っ越してるのでなかなか行けませんが(コロナでなおさら)、おとめ公園があったり広々静かで落ち着いたところですね。
椎名町も行きましたが、商店街があったかな。
松本清張氏は、そのことも「731部隊関係者」説の裏付けとしていた。
それを読んで、納得させられたものだ。
>その殆んどは、「余計なことをいうな。ロクに覚えてもいないくせに」とか、「青酸加里をよろこんで飲むような頭で、何が判るか」とか、「捜査したものの苦労もしらないで」とかいうものでした
現代と大差ない。
これが日本人だ。
この事件は、冤罪のにおいがプンプンします。
捜査の素人であっても「違う気がする」という違和感は、けっこう的を射ていることが多いものです。
数年前、椎名町に用があったついでに犯行現場に行ってきましたが、マンションになっていました。
語彙が豊富で、認識範囲が広くて深い。
読んでるだけで頭良くなりそう。
それが上手く噛み合ったのが「展ちゃん事件」…状況証拠から嘘発見器の結果まで否定し、犯人はこいつしかいない!という思い込みを信じ、犯人のアリバイ崩しに至った!
逆に的外れな思い込みから捜査を混乱させてしまう事も多く、下山事件や三億円事件も、迷宮入りした事件に平塚さんが関わってなければ、違った展開になっていたであろうと指摘される。
特に三億円事件では、平塚さんの思い込み違いから誤認逮捕し、マスコミも「捜査の神様」からの情報を信じ、最初から容疑者を犯人として扱い、容疑者は誤認逮捕と判明して釈放されたが、逮捕された事が原因で家庭崩壊、それが原因で自殺!
大森勧銀事件も、容疑者の足が現場足跡と合っていないのに起訴されていた事が判明し無罪!
帝銀事件も冤罪の可能性が高いと指摘される原因です。
30年ぐらい前に読んだときに知ったけど、その時点でも変な話だなと首をかしげたのを思い出した。
上司が信用すれば、いくら変だと思ってもついつい従ってしまう。
いまなら常用薬との飲み合わせやアレルギーなどの問題もあるし、インターネットで赤痢の薬についても簡単に調べられるのでできない事件です。
上司や先生に従うという感じの。
でも大量殺人を犯して犯人にどんな利益があったのでしょうか。
真犯人の大胆なこと。場馴れしている様子からしても(この証言だけだが。)、薬をわけているところからも、医者とか薬剤師とか、そのあたり。
なんで捕まえられなかったのか。
法治国家の看板が虚しいよ(>_<)
「昭和の日本人」って感じの話だと思う。
平成以降の日本人なら絶対に飲まない反骨の人間が出てきて犯人が直接手を下すしかなかったはず。
731部隊と米軍が絡んでるという話は。
弁護士には真実を話さなければ弁護出来ないと言われても 分相応な大金の振り込み者を話さなかったのが決定で その後弁護士が交代しても真実を話さなかったし 振り込んだと言う人も誰も名乗り出なかったので犯人に間違いないと言う事だそうです。
「見張りをしていて、口止めに金を得た」というのは、素人目にも無理がある。
・犯人は目撃されても怪しまれないように、衛生当局かのような白衣と腕章をしていた
・支店に人が出入りできないように閉めさせている
・行員多数にたやすく毒殺しているのに、平沢氏はなぜ生かしたのか
…など、見張をおく必要はないし、リスクが高まる素人の平沢氏をわざわざ引き入れる意味もわからない。
どう考えても「共犯」説には疑問だらけです。
更に、帝銀事件の時初めて見張り役を置いたのであれば、類似事件の時に見張り役の必要性を認める「何か」があったハズですが、類似事件の概要から、そのように判断するような事態も見受けられません。
逆に尋問を担当した平塚氏は、頭が良くて話術が巧みな事から「落としの八兵衛」と呼ばれていましたが、気性も荒く拷問に近い尋問をしていた事は有名です。
実際、平沢氏も拷問に耐え兼ね、獄中で数回、自殺を試みているほどですからね!
また、大森勧銀事件のように、犯人の足跡と、容疑者の足が合っていなくても起訴してしまう強引さもありましたから…
犯人が使った毒の特定も出来ない。
毒は勿論、薬の知識すら持たなかった平沢氏が、疑り深い人すら騙すほどの医学知識や、薬の知識を身に付けたのか?…書籍等、独学で学んだ形跡も、教えたという人物すらいない。
そこから平沢氏が犯人と繋がる事が不思議です…もぉ平塚八兵衛さんのように「犯人は平沢しかいない!」という偏見しかなかったんでしょうね。
判断力
時間が奪われると
事前に第二波への備えを
銀行、商行、商店はあるのに銀店が無い理由は?
では私も。
銀行と信用金庫がありますが、全国規模、時には海外にも支店があるのに『銀』行、小規模なの信用『金』庫。規模が大きいほうを『金』を名称に何故つけないのか。
当時の日本人なら文句も言わず疑問も持たずに部下は上司に、生徒は先生に従う。
医者らしい振る舞いとしているけれど、本物の医者は常に医者らしく振る舞っているわけではない。
医者を演じているからこそ医者らしく振る舞い続けるのだ。
女形が女性より女らしく振る舞うのと同じだ。
演技の心得のある人間の犯行で医者でもなければ絵描きでもない。
なんで平沢を犯人に仕立て上げたのかなぁ???
そでが一番気になる
ネクタイ人は悪い事をしないは嘘。政治家
見かけで判断する。
途中から入ってきた刑事は人殺しよりたちが悪い奴だ!
管理人の率直な感想
平沢元死刑囚は画家でしたっけ。
名刺から平沢元死刑囚に辿り着いたと記憶しています。
こんな薬学に関する知識はなく、確信的な物的証拠もない。
ただただ圧倒的に運が悪く、状況が平沢元死刑囚に全て向けられた。
それで死刑囚になってしまうんだから怖い世の中だったわけです。
さすがに現代では考えられないことですが。
この生き残った女性の記録が凄いですよね。
文章に惹き込まれます。
僕が生まれるずっとずっと前、というか両親さえ生まれていない時代の事件ですが、その時の情景が浮かんできます。
きっと聡明な人だったんでしょう。
結局、毒物は何だったのでしょう。
どうしてこの女性は生き残ることができたんでしょう。
きっと国は真犯人を知っていた。
でも手が出せなかった。時代的に絶対にタブーだった。
死刑が執行されなかったとはいえ、現代の人間ならばほとんどの人が冤罪であると考える平沢元死刑囚。
死ぬまで刑務所にいなければいけなかったことを考えると、何ともやりきれない。
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