「人生に失敗してきた」、「やりたいことができていない」。残念な話だが、40~50代になってこう確信する人々がいる。この感覚は何を物語っているのだろうか? 本当に失敗は人生の行き止まりを意味するのだろうか? 心理学者が解説してくれた。
「私は人生に失敗した」と嘆く。その言葉は、マリーラインさん(41)のインタビューが終わった後もずっと頭の中に響いていた。彼女のヘーゼルナッツ色の瞳は霞んでいた。「人生設計の枠から外れている」ことを自覚した彼女はこんなことを述べた。かつての彼女の人生のリストには、良い職業に就き、マイホームを持ち、パートナーと子どもを持つという伝統的なものばかりが並んでいた。
「今年中に返済を終える予定のワンルームマンションを除けば、大失敗でした」と彼女は言う。そして、「私が定期的に会っているのは、私のうつ病の治療を担当する精神科医だけ」とも語る。
誰もが子ども時代に、偉大なことを成し遂げること、並外れた人生を築くこと、夢のような人生を生きることを心に描く。ただ、現実世界を知るようになると、私たちの人生は突然、平凡に見えてくるのである。この感覚は何を物語っているのだろうか?自分がたてた目標は何処へ?
「『人生に失敗した』と発言する人は、比較しがちです。よくこのような話をする人は、自分と他人を比較したり、理想とする社会像と比較したり、理想的な自分と比較したりする傾向があります」と幸福のためのセラピーを専門とする心理学者、サラ・ヴァンデカステールは言う。
思い描いた願望
ある年齢に行き着いた時、自分のおかれた状況は控えめに言っても酷かった。50代のアンヌ=リースは、それを端的に表現している。彼女にとって「人生に失敗した」ということは、「50歳になって何も成し遂げられなかったという思いで目覚めること」だと言う。
世界的なマルチエネルギー企業で責任あるポジションに就いているが、メトロに乗って仕事して寝るだけの人生に窮屈さを感じている。
「『潜在的な思い』が心に忍び込んでいる。学校から墓場への片道切符を手に入れたよう。学校から墓場まで、驚きも見どころもないわ」と語る。
この「人生に失敗した」という思いに、44歳のティメオも「強く打ちのめされた」と言う。2021年、エンジニアの彼は結婚式で高校時代の友人と偶然に再会する。その友人がアジアのホテルチェーンのトップであることを知ったのだ。好奇心を刺激された彼は、SNSで自分のかつてのクラスメートのことを検索してみた。すると、もうひとりがアラブ首長国連邦でモデルと結婚し、常に旅をし、素晴らしい風景を背にしてシャンパーニュを楽しみ、駐在員生活を送っていることを知った。その事実を知って、彼は苦い思いをした。「彼らは私と同じような子供時代を送り、同じ町で過ごし、同じような機会を持っていたはずなのに、なぜ私ではなく彼らなのだろう?」と彼は自問する。
彼らの言葉を聞いて、心理学者のクレマンス・ブルックは次のように指摘する。
「人生に失敗したのではない。かつて思い描いた願望に失敗したのである」。そして、それには理由があり、幼少期、つまり子どもの頃の願いを投影している。
「結婚して子どもがいる自分を想像していたのに、彼は40歳になっても独身である」と心理学者は説明する。その中で、「子孫を残すこと」「家族を養うこと」という、あらゆる社会や職業に共通するパターンを見出すことができる。
失敗したときの対処法
自分の人生についてそのような発言をすると、恐ろしい結果につながる。それは自分の価値を下げ、自尊心の喪失につながっている。つまり悪循環なのだ。「失敗の予感は、ある意味で失敗を呼び起こす傾向があるのです」とクレマンス・ブロックは警告している。サンドラ(39歳)は、2年前にこの下降線に陥った。その日、彼女は自分の職場である旅行会社の支店長に自分が「不要不急の人員」と判断されたことを知った。必要とされていない感覚が、彼女の中で偏った内観を始め、ついには命を絶つことまで考えた。
「姉がアパートに来て、私が無反応な状態のところを発見してくれました。姉は自殺を試みた私を受け止め、失敗や辛いことはずっとは続かないと言ってくれたのです」と彼女は振り返った。心理学者のサラ・ヴァンデカステールは、この地獄への転落に対抗するために、感謝の気持ちを持つことを勧めている。
「人は常に自分が思う以上に、はるかに多くのことを成し遂げてきています。それを知るために、私はいまの自分から1年前の自分へ手紙を書くことを勧めています。目的は、大小さまざまな自分の成果を自分自身に伝えることです。子どもたちを素敵なイベントに連れて行ったり、ずっと散らかっていた家具を地下室から出したり、なんでも良いのです」と、彼女は主張する。
心理学者のサラ・ヴァンデカステールは、つい最近も高齢の患者さんにその方法をアドバイスし、これまでの人生を振り返ってもらった。「人生の終盤で人間関係を振り返り、行動よりも大切なものに気づくことがよくあるのです。老後、人が幸せになるのは、達成したことや物質的なことよりも、むしろ人との交流です」。
人生の挫折は、必ずしも行き詰まりを意味するとは限らない。「人生に失敗したと思っても、それぞれに道はあります。何もせずに停滞するか、現状を否定するか。あるいはそれを原動力に変えるか(生活を改めたり、自分の人生の捉え方を変えたりすることによって)」と心理学者クレマンス・ブルックは分析する。
この感覚をきっかけに、全く新しい広い可能性が広がっていることに気づく人もいる。42歳のときにマディは人生に失敗してきたと思ったことをきっかけに、すべてを変えた。「日常生活、そして自分の人生が自分に合っておらず、自分の価値観にも合っていなかった」。彼女にとって些細なことから変えて行った。月1回はしっかり休み、頻繁に利用していたタクシーを自転車に変え、無理な誘いはあえて断り、外出の機会を増やすなど、自分のための時間を大切にしている。さらに、人権擁護団体に時間を割くために、勤務先の法律事務所ではパートタイム勤務に変えるなど根本的な変化も。
「窓際に追いやられることもなく、自分のポジションを楽しんでいる。かつて少女だった自分に会ったら、やっと私のことを誇りに思ってくれると思う」と微笑んだ。人生に失敗したと思った時こそ、再出発のチャンスでは?
参照元:https://madamefigaro.jp/society-business/220512-life.html
みなさんの声
また、友人がどういう生活をしていようが、自分の人生の判断にどう影響を与えるのだろうか。私には理解できなかった。
友人がアラブで悠々自適に過ごしいているから、自分の人生が失敗したと思う理由がよくわからない。
中国に派遣された早稲田卒の小中の友人は、とにかく中国での暮らしをSNSに載せまくってた
特に当時は接待やなんやで高級料理を食べて高いワインをお土産にって流れが沢山あったみたいで
料理の写真はもちろん、休日の優雅な暮らしをこれでもかと載せまくってた
そして2年くらいたって現地にいた日本人の女性と結婚して子供も生まれたんだけど
その頃から自身を写真に載せる事がなくなって更新頻度も下がり、遂に三ヶ月更新してない状況になってた
友人内でいろんな噂が流れたんだけど、結局のところ実は中国にいたのは1年だけで(結婚も嘘)
接待は確かに受けたがほとんどの写真が会社支給のデジカメに入ってた上司の写真だったみたい
最初の頃は辻褄を合わせるためにその店の前で自撮りしたりてたらしいし
友人に日本で会うたび「今は帰国中」で通してたみたい
今は完全に音信不通です
私の人生の中で唯一達成したと胸を張って言えることです。
あともう一匹くらい幸せにしようと思ってるところです。
結局は私が救われたように思いますが
多くは幼い頃に失敗し自分の出来ること出来ないことを知る
けどいつまでも「自分は出来る人間なんだから」という思いに囚われていると[勝手に]人生に失敗したというのだよ
人は手の内に残るものしか手に入れられない、指の隙間からこぼれ落ちるものや掴めないものは元々自分には分不相応だと心得る
何をもって成功と言うのか、失敗と言うのか?
著名人は自身の人生を成功失敗でとらえているだろうか?多くの人がその時々の最善を尽くしただけだろう、が、赤の他人はそれを「成功」と勝手に見なすのだ
理想通りにいかなくとも、皆必死になって生きている。
何故なら墜ちれば人に利用される。
損したくないという思いに縛られている人は、本当にやりたい事が出来なくなります。そのために、やりたくない事をイヤイヤやる人生になってしまいます。
長生きしたいとは思わないが自死する勇気もないから、寿命を全うするまで何とか頑張って生きてみたいかと。
ただ、結婚、子供を授かるというところに関してはできなかったときのダメージがあまりに大きいと感じている。
人生に失敗したと感じて悪循環に陥ってる44歳独身男としては、この悪循環から脱出するかのきっかけにしたい。
これまでの選択や行動で今まで生きてこれた。だから後悔もできる。場合によっては後悔すらできない状態になっていたかもしれない。
まさにこんな気持のときで、なるほどねと、気付きというか励ましをもらってきがしてよかった。
でも、頭では分かってて前に進んでいるつもりでも、時々夢で蘇ってしまうんだよ。
どうにかならんのかと自分でも思うわ。
コレは、比較し始まったら"キリ/際限が無い"です。
過ぎた時間や行いは取り戻せません。
失敗を反省/糧とするか?後悔/無駄とするか?は『今、この時に失敗に気付いたアナタ次第』です。
40を超えてあいだみつをさんのこの言葉が沁みるようになった。
何時、どうなるかなんて分からないとこがあるから、満足して楽しんで過ごしたいね。
楽しかったー、っと思えたらそれでいいのです。
時間は進むのみ。
前を向こう。
いまからでも!!人生たのしむぜ!!って性格の人なら、なんなら問題ないことばかり。
人は、ひと 自分は、自分
死ぬ時 笑えそう!
…失敗した事無い人は「完璧な人生」ってなるのかな?
生きたくても生きられなかった方、志半ばで無念に死去された方、事故や事件に巻き込まれた方、更には祖国を守る為に、自ら死線に赴く方もおられる。
自分の思い描いた理想から脱線した程度で、人生に失敗したとか?思い上がりも甚だしにも程がある。何の為に生まれて、そして生きていくのか?一寸先も見えない五里霧中を歩き続ける事が、人に与えられた業ではないか。
命は与えられた物。自分の命は自分の物だと勘違いしている高慢。だから自殺者は例外なく地獄へ堕ちる。神仏の概念では自分自身で己を殺した殺人罪だからな。
自分で勝手に思い描いたレールを外れた位で、人生悲観するんじゃねーよ全く。今を一生懸命に生きてりゃいいんだよ。
失敗も成功も無いよ。無駄だろうが、くだらなかろうが、楽しかろうが、苦しかろうが、一瞬一瞬が唯一無二!
まー哲学的に言うなら全て無意味なんだけどw
何を成そうが何億年後には地球は無いし人類も居ないんじゃないかな?どーでも良いじゃん。人生楽しめよ!
小学生の卒業文集で10年後何になってますか?と言うお題に「平社員」と書いた俺はそれすら達成しなかったよw
で?結婚できたし、不自由してない。失敗は後悔しても意味はない。反省して前に進まなきゃ、時間に置いていかねるぞw
足に鉄球付いた状態で海に放り込まれたような人生でも、まだ溺れず生きてるだけ上出来だと思えば。
人生に失敗したとウジウジする人は何をやってもこうなる
逆に育ててた花が咲いただけでも一日ハッピーで
月をオカズに酒をのみ、日なたぼっこしながら野良猫を眺めて心穏やかに毎日笑顔ですごす人もいる
人生に失敗したとかいう話は霊界でしてくれ
何と勝負してるんだろと思う。
生まれてきたことが、全ての過ち。
成功者など、いない。
そんなことなんて誰にもわからない。
本人ですらわからないものよ。
それが人生
一生涯の重荷となってしまうような失敗というものがある。
その過ちや失敗というものは忘れたいし考えたくもないだろう。
しかし、それらは自分の過去であり歴史であり自分そのものである。
誰にも触れられたくない秘密はあるのだからそれを公言する必要はない。
しかし、その失敗や過ちを自分の心の中でしっかりと認める必要はある。
しっかりと認めてそれらを踏み越えて生きていく必要がある。
自分の人生を後悔してもよいが、自分の過去を否定してはいけない。
自分の過去をすべて認めないと胸を張って生きていくことはできない。
恥ずかしい過去も含めてすべての自分をありのまま認めよう。
自分の命を賭けて前を向いて歩こう。
その覚悟があれば怖いものなどないはずだから。
後悔のない人生に必要なものはその覚悟を持つための勇気である。
みんな挫折しながら方向転換を繰り返して今に至っていると思う。
同じ学校で一緒に学んでいたけど国内外で立派な仕事をして、先生と呼ばれるくらい活躍している友人もいます。でも、そういう人でも思うようにいかず悩む事はあると思う。
若いときには気付けなかったけど、人それぞれ器があってその範囲で精一杯やるしかないと思います。
幼少期の頃に戻り全てやり直せたのならば…と思うが、それは叶わない。
「平凡な人生はつまらない」という人がいるが、不幸の連鎖に苛まれてきた私からみれば平凡こそが、どれ程恵まれていて幸せな事なのかと思う。
家族等の身の回りの人達と何気なく過ごせる日常は有限で、かけがえのないものなので大切にして頂きたいと思う。
よくTV等で人の成功談や華やかな生活を取り上げているが、人それぞれ与えられた環境や能力、器が違うのだから比較せず、「人は人自分は自分」と割り切って過ごすのが良いかと思う。特別な人達と比較して、身の丈に合わない幸せを求めて、それが叶わない時に失敗したと思い込んでしまうのではないだろうか?
願わくは残りの余生、平凡に過ごしたい。
実家に母と二人で暮してたが40歳の時に母が認知症となり50歳まで一人で自宅で看てきた
ある程度の生活は出来てたが毎日起こる突拍子もない認知症行動に精神的にやられており介護職の知人も心配してたくらいでした
そして3年前に偶然の出来事があり施設に入る事が出来て一安心
でもすでに50歳
母の面倒ばかりで自分の事は二の次でした
再婚して子供が欲しいとも思ってましたがこの状態では相手に悪いと自分の中で蓋をしました
友達は少ないが趣味がたくさんあり憂鬱になることはないです
このまま一人かなと思うと寂しいですが養子を貰うような収入もなく結局経済的に無理な話ですね
人生振り返ってみるといくつものターニングポイントがありましたがその一つでも違う方に行ったり、そのターニングポイント自体無かったりしたらどんな生活をしていたのか
ただ一つの夢が叶ってるのでこれでいいのかな
何でも自分の思い通りにならないことを失敗にすると人生は小さなことから大きなことまで失敗だらけになり失敗することを恐れると不幸な気分になります。
私の人生訓は人生でうまくいくこともうまくいかないことも大体同じ確率で起こる。上を見ても下を見ても仕方がない。
失敗しても後悔はしないで次に同じ失敗は起こさない様にする。
5体満足で生まれて健康で生活できれば十分幸せ。くらいですね。
そして未だに問題だらけです。
大きのから些細なものまで、結局尽きない
だが最近あることに気づいた。一つひとつ解決したり調べたり実行していくことで変化する自分も周りもそしてそれらの悩みや問題が政治レベルになり世界も変わる。
人類に与えられた使命があるとするならば他の動物には無い知能を使いひとつ一つ解決していく
ただそれだけそしてそこには大きな意味はない
やらない、考えないという選択もある。
もはやそれすら一つの答えですけどね
ここまで生きたんだ。もう少し世界をみてから死ぬんも悪くない。
学べば学ぶほど大した意味を持たない事に気づく
角度変えて見るんやで。
どうしたいかは、自分しかわからないのだから。
幼少期に戻るのも困る私には、このい家に生まれなければ良かったと真剣に思ったことが有ります。
60代の今の脳の中は後悔と懺悔が多くを占めてますが、楽しい思い出もその下に隠れて沢山有ります。
今の自分には、辛い事を乗り越えられる、乗り越えて生きて来たという自信が有ります。
後悔、懺悔にならない為には、人生の岐路や判断の際に大切なものを見失わずに行動すること。経験で悟らされました。
人生は小説より奇なり、色々な人生は当たり前です。
人と比較する事なく、騙され易い脳を騙しながら気分転換して、大切なことを出来るだけ見極めながら余生を生きて行きたいです。
失敗したと言った人はその後、これで良かったんだとどこかで言ってると思うわ。
そういう歩みや経験をするために人は一生を生きているのかもしれないと思うおっさんであったw
ワイも失敗したと思ったことあるし、その後、そうでもなかったと思ったしw
その過程は誰もが歩く。
皆、それぞれの自分の一生を歩いている。
映画見たらいいし、小説読んだらいいし、ゲームもしてみたらいいw
すごいその時の自分だからこそ見いだすものがあると思う。
失敗した、と思うそれは竹の節目の時期なのだと思うわ。次に行く為に必ず通る道なのだと。
兄妹もいって経済的に大変でした。
母も病気になりました。
テレビも自由に観れなかった。
家族がいるから取り合いです。
だから学校の話題についていけなくって、困っていました。
視野が広がったと感じるのは大人になってからお金を自由に使えるようになった時です。
失敗や過ちは背負っていくしかない。
現在は見逃し配信もありますし、お風呂も自分の入りたい時に入れます。
だから私は不幸な人ではありません。
両親はいない。
心配をしてくれる人はいます。
上のきょうだいは亡くなりました。
残るきょいだいは疎遠になっています。
平凡に暮らしているから幸せ、伴侶や家族や大事な人がいるから幸せ、好きな仕事や趣味をしているから幸せ、今日は天気がいいからなんか幸せ、と自分で感じるものです。
出世してもお金持ちになっても周りにちやほやされても満たされてない人なんてわんさかいます。
何か自分が思い描いていた条件を満たしたことによってなるのではないのです。
改めて自分を見つめ直してみると、気づいてなかった幸せがいっぱいあると思います。
一人でも多くの人に幸せを感じていただきたいです。
それは必ずしも悪い事ではなく、人が成長するには不可欠な要素。
でもそこには、大前提があります。
それは、他人以上に、自分にちゃんと向き合う事。
当然です。
他人と向き合って自分を成長させるには何よりちゃんと自分が確立していなければなりません。
自分とは…、難しいですね。
信条や正義感情、得意不得意、好きなこと、住む地域や家族構成、今の地位や過去の実績…。
そんなのがないまぜになって、自分があります。
常に、自分と対話していく必要があります。
自分との対話、いろいろ試行錯誤する事が大切です。
流行とかアゲアゲばかりとか、逆にダラダラ生きているだけだとなかなか自分と対話はできません。
遊びでも何でも、精一杯やると、何か見えてきます。
見えてきた自分、「なかなか良いじゃん」かもしれません。
そう思えたら、人生、失敗ではありませんよね。
目の前の課題にベストを、できる限りのベターを尽くしていけば、これ以上できることはなかったと諦めがつきます。その結果が失敗でも良くないですか。
次の目標にまたがんばれば良いのだと。
殆どの人が多数の挫折や失敗、進路変更をして今に至っている。
寧ろ、挫折したことが一度も無いという人は、将来悩みますよ、哀れにすら思います。
なぜなら、100%完璧な人などいないのですから、時折の失敗や挫折を経て人間は成長していくものだからです。
私自身、人生の約半分程度を過ごしてきましたが、挫折や失敗など数えきれません。
運悪く就職氷河期世代ですので、景気の良い思いなどした事がありませんし、社会に出た時からお先真っ暗でしたよ(笑
自力で掴むしかなかった。
しかし、”失敗はしても後悔はしていません”
その失敗が今に繋っている。未だにやりたい事は山ほどあります。
当方も後悔が多すぎる一人だけど、ある程度歳をとってみると、ないものねだりの類だったり、自分には適切でない野望もあった、と客観的に見えるものも多い。
それでも依然残っている悔いの場合、案外まだチャンス無きにしも非ず、とも思えるので、生きる原動力にもなっているのです。
幸せかどうか世間や他人と比べてたら、最後は霊園の格や戒名の値段でマウント合戦することになりますよ
大事なのは自分が人生を楽しんでるかどうか、楽しめることがあるかどうかでしょう
仕事以外で他人と競って勝つ義務なんて無いんですよ
マウント合戦が生きがいならしょーがないけど
羨ましいというか、今の自分の人生からは何があってもあっち側にはいけないよな、みたいなやさぐれた気持ちを抱くのはわかる気がする。
かといって自分を偽ってSNSなどで承認欲求を満たすほどに病んだりもしていない
ただ、あーいいなーって思って自分の人生と比べてしまう、そんな人は案外多いのだろうなと感じる。
「それも私の人生」って思って自分の人生に集中するしかないんだろうな。
大学へ進学した友人が妬ましくて羨ましくてたまらなかったが、数年後、バブル崩壊…大学卒が就職難。
国家資格合格して、病院就職して現在は年収700万の臨床検査技師。
真面目な性格を見こまれて、お見合い→結婚(夫は、国立大学院卒技術者)→二児の母
上を見ればきりがないが、親に、世の中の動きを察知すら先見の明があったのだと思う。
この年になって親のありがたさがしみじみあわかる。
未来は自分の力でいくらでも変えられると思いますよ
結婚したことを後悔している人から見ればフリーでいいよねと羨ましがられる。
失敗か成功かは自分の考え次第。
人間に生まれてこられたこと自体が成功なんじゃないかな。
大金持ちになろうと思った ⇒ ダメそう ⇒ 老後苦労しない程度の蓄えを作ろう、とか。
大学教授になろうと思った ⇒ 准教授どまりみたい ⇒ 趣味に生きがいを、でも良いだろう。
良い撤退戦(切り替え)ができないと、戦争(人生)全部が敗北になってしまう。
上手な切り替えが大事ってこと。
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